心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

非二元セラピー仏教

非二元セラピー仏教

そんな仏教は無いわけだが

 

民衆は、何を根本とすべきか

という問いに

 

今私が出す一つの答えとして

私が提供できるものとして

非二元セラピー仏教と言いたい。

 

それはなんなのか

 

仏教心理学というと

心理を分析する際に仏教を用いる

仏教で心理を学問する

という感じがするけれども

 

それだとちょっと違うんだよね

って感じだね。

 

考え方として「それが法である」

見たい対象の真理というものは

仏の教えの中に説きつくされている

という立場に立つというなら

どの経典の、どの宗派の考え方に立つのか

ということになる。

 

しかし実際の現場で(仏教)心理学を使って

癒すということをするとして

 

法といっても見たいのはその相手の一心一念の在り方であるから

それは、考え方なんていうものを持ってこなくても初めから

完全完璧に欠けることなくそこに相手がいるだけでそこにある。

 

仏教を読み解いていく必要があるのではなく

今ここにいる人の心を読みほどいていく必要がある。

 

たとえ仏教経典に何と書かれていようと

今ここにある心の在り方の方が現実通りなのである。

 

非二元セラピー仏教というのは

今ここにある心の在り方そのものが

非二元であることを法としてセラピーをしていく

ということである。

 

非二元というのは、主体と客体が二でない。おわり。

なのだが、補足はしよう。

 

依報(客体)と正報(主体)が不二(二でない)とすれば

一心(潜在的に気づけていること)が法界(心の反応の働く世界)であり

諸法(気づくことのできる森羅万象)は

一念(今の一瞬だけがある)であり

諸法(今気づける森羅万象の世界の中に)

無我(一切変わらずあり続け、つかめる自分という実体はない)であり

諸行(すべての現れている現象は)無常(変わらないものはない)であり

一切(全てのものは)皆苦(みなコントロールできない)である。

 

思考概念で理解しようとすれば

仏教心理学になってしまう。

 

自分の意識でもって確かめてみて

文章が間違っているなら、文章の方が間違っている。

 

さて、仮に依正不二から一切皆苦まで筋が通っているとして

そうであるならば、ひるがえって

苦が苦として在り続けているから

現実の思い通りにならない現象に会って

それが反応して心が乱れる。

 

さて、その状態から逃れる方法として仏教では

瞑想、祈祷、礼拝、マントラ、読経、写経、忍難、弘通、等々

あるわけであるが

 

非二元セラピー仏教は、その位置に

感情を流し、存在を受容するセラピーを置く。

 

心の反応から、その潜在意識で

何が起こっているのかを見ていき

 

その元にある苦を

そのままあって良い楽へと癒していく。

 

そうすると潜在意識で苦しいことが起こっているということが消えるので

反応として苦しいということが起こらなくなる。

 

仏教の修行は宗教化しているのでああしろこうしろというものであるが

非二元セラピーは、あるがままそのまま、ただ癒していくのだ。

 

非二元セラピー仏教の仏教は

知識として用いるのでも

修行法を用いるのでもない

 

非二元の補足確認をしたような

意識の使い方の智慧として用いる。

 

セッションで仏教ではどうだとか

そういう話が出てくることは無い。

 

ただただこの智慧を方法として使って

ありのままの、今ここにいる人の潜在意識まで見ていく。

 

そうすると潜在意識は自由に解き放たれ自己回復する。

 

自己回復だから、回復したら、

もう外からの何かを必要とすることがない。

 

人が苦として持っているものは

一つや二つではないけれども

 

大きなものが癒されたときや

時間をかけて減らしていったとき

 

こんなにも楽になれるんだということが実感できる。

 

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