心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

恐れベースの解体

例えば「一人寂しく死んでいくのは、不幸な死に方」

という考え方について

 

もっともらしく聞こえる、ということがある。

 

そこで、ある人は「この教えを信じれば

一人寂しく死んでいくようなことは無いですよ」

というものに出会い、選び取り

生き方を決める。

 

それによって、

強い生き方ができるようになる人もいる。

 

死に方をゆだねるほど信じるというのは

生き方をその教えにコントロールされる。

 

「一人寂しく死んでいくのは、不幸な死に方」

あるいは「ご先祖様が苦しんでいる」

 

そういったイメージにつけ込むようなものは

同調的コントロールの思想集団を生む。

 

その同調的コントロールの思想集団とは

元々の思想を歪曲した

その教団のトップですら手の付けられない

好戦的同調集団になったりする。

 

宗教裁判や戦火の絶えない『天国』を説くアブラハムの宗教

一向一揆などの『極楽浄土』を説く浄土真宗系の宗教

日蓮主義などの『霊山浄土』を説く日蓮系の宗教

 

彼らは正しさを作り上げ正義だと信じ込んで行動する。

 

恐れベースの上に信念体系を作っており

自分たちと違う考え方を攻撃する。

 

しかしそれではいくら

違う考え方のものを攻撃し抜いたとして

ベースの恐れは消えることは無い。

 

死に至る時、消えていない恐れが隠し切れず噴出し

激しい後悔と苦しみの中で死んでいくこともある。

 

こんなに信じ、正義のために生きたのに

どこで何を間違えたのだろうか?

 

「誰かが信じている尤もらしく聞こえる言葉」

「この人が言うのなら、私も信じてみよう」

 

一度そういう風に信じたならば

その信念体系を否定されれば不快であるし

現実がその通りに行かなくても不快である。

 

不快を感じたとき、信じることを手放す選択肢もあるが

同調集団の中で作られた信念体系によって

それが難しくなる。

 

さて普通、選択権が信じる側にある時には

それを信じてもやっていける強さが

自分には十分にあると感じられなければ

そうそう簡単に、人生や価値観を左右するような

重大な信じる選択はしないであろう。

 

では、自分で選択を誤り

変なものを信じる人間が悪いのかどうか?

 

いくつかの難しさがある。

 

始めに信じたのは真実と感じたごく一部分であったが

同調集団の圧力によって信じる部分を拡大され

元の感覚がマヒしていったり

自分の信じていることを護るために何かに反発して

自分の中に独自の健全でない信念体系を構築したり

 

あるいは初めから自分で選択させてもらえず

侵略的に強いて説き聞かされて

元々持っている価値観や信念体系をへし折られる場合

従属させられるような苦痛がある。

 

あるいは

「誰かが信じている尤もらしく聞こえる言葉」

それを信じているのが親であった場合、

その信じていることが「尤もらしい」のかどうかさえ

判断することなく教わった通りに子は信じる。

 

その結果、世間からは尤もらしく聞こえないことを

これのみが信じるに足る確かなものだと信じ語り

「よし、それを信じよう」という者が少ないことを経験する。

 

正しいはずなのに誰も信じないおかしさ

 

それに対しての教えは

信じる者が少ないから修行なのだ、強いて説き聞かせていきなさい

悪く言われたり手を出されても、自分の過去の罪が滅せられるから無駄がない

幸せになれないのはあなたの信心が足りないからだ

 

子供のうちからそんな教えの世界にいることは

まじめな子であればあるほど、きつい。

 

そうして、自己価値が低下しているところへ

訓練し特別な人間になり役割を与えられると

その役割の中身が世間的に善なのか悪なのかよりも

役割に応えることが最高の正義という価値観になる。

 

集団的な犯罪や倫理欠如が、その内輪で正当化されたりする。

 

さてさてさて

ここまでこじれている場合

 

一筋縄の心理療法では太刀打ちできないかもしれない。

 

丁寧に信念体系をほどいていく必要がある。

 

ベースとなっている恐れをほどいていくのだ。

恐れがなくなれば信じる必要がなくなる。

 

恐れを突き詰めれば何らかの死に行き着く

社会的な死・精神の死・肉体の死

こんな死は不幸だという恐れ。

 

それらの不幸な死のイメージは当人にとって

それはリアルに不幸である尤もらしい概念と感じる。

 

そこから逃れられるのならばと藁をもつかむ。

 

その不幸な死のイメージやストーリー自体が解体されれば

苦しみはなく、なにもつかむ必要がない。

 

ただ楽にある、そのためには

自分を読み解き、知っていく旅になる。

 

傷付いても自分が悪いと思い進もうとし続けた自分や

誰が正しいのか何が正しいのか分からなくなり孤独になっている自分を

発見していき受容していき取り戻していく。

 

信じなければならない苦しみを手放し

否定されることへの攻防反応をしなくなり

あるがままを受容する。

 

楽に生きていけるようになる

 

gozekou.net

 

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