心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

毒親 毒師 毒主 する側される側 全対応の癒しの考察

ただ苦しみから解かれるために、何が苦しみを起こしているのかを知るために、考察をしている。

毒親という言葉があるが、毒親・毒師(先生)・毒主(グループの権限)がどんな影響を与えるか仮に分けてみる。

悪い親や保護者は自分の信念体系を中心に置いて、正しくない子供に体罰等を加える。
その子供自身の信念体系に寄り添わず、肉体的な苦痛を与える。
子供の肉体のキャラクターの自分と、精神の信念体系(脚本)の自分の形成に関わる。

悪い先生や提案者は自己の感性で何が役立つかを決めて、勝手な生徒が自由に振舞うことを制限する。
その生徒の能力や感性に寄り添わず、することへの苦痛を与える。
生徒の人間関係の中で振舞いをする自己と、欲求処理の中で受け取り方をする自己の形成に関わる。

悪いグループ内の格付けを扱う者は自我の好き嫌いで判断し、対立的な一員が自分の考えを起こすことを否定する。
その一員の情緒やストレス状態に寄り添わず、浮かぶ考えへの苦痛を与える。
一員の正誤善悪を判断する知性の自我と、好き嫌い嬉しい悲しいを感じる情緒の自我の形成に関わる。

仏教にヒントを得た師弟・主従・親子の究極の関係を、理解の進んでいるところから考察を進める。

「仏のような振舞い(良い師としての応身の聖人)」と「良い修行者の自己」は能応所応、能感所感の関係になる。
感じられたところの仏のような振舞いとは、相手の受け取り方や持っている才能に「よく応じ」良い受け取り方を喜び良い振舞いをする者。
応じられたところの良い修行者の自己とは、教化された精進の方法をする中で「よく感じ」良い振舞いを尊び良い受け取り方をする者。
感応道交で育て未来を豊かにする。修行者は遠い未来世に仏になる。

「あるがままの真実(良いグループの報身の法体)」と「良い諦めの自我」は能属所属、能持所聞の関係になる。
聞かれるところのあるがままの真実とは、一員の好き嫌い嬉しい悲しいを「よく属させ」良い情緒を喜び良い知性のあるところ。
属されたところの良い諦めの自我とは、起こっていることのありのままに意識を向けて「よく持(たも)ち」良い知を学び良い情緒を起こす者。
諸法実相に参じ今ここで安心安全になる。今世でサレンダーであるときは仏と開く。

「毒を抜き本心を取り戻す薬(良い親としての法身の神通之力)」と「良い生命活動の自分」は能与所与、能服所服の関係になる。
服されるところの毒を抜き本心を取り戻す薬とは、精神の脚本に本心のままの信念体系を「よく与え」良い信念体系を喜び良い身体の成長を見守る生命の良薬。
与えられたところの良い生命活動の自分とは、その薬が味も香りも色も良いと知り「よく服し」良いキャラクターの自分を蘇らせ良い信念体系を輝かせる者。
久遠実成を分与し過去のトラウマを解体する。生死を貫く生命が遠い過去世からの仏と輝く。

悪い親や保護者、悪い先生や提案者、悪いグループ内の格付けを扱う者、それぞれの癒しについて考える。

悪い親や保護者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
子供というものは大抵、親にとって恥ずかしい行動をとったりするものである。
しかし「子供の正しくない状態」が問題としてあるのではなく、「子供としては正常な在り方」に対してする「正しくない」とか「恥ずかしい」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、先祖代々の禁止や秘密にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わり子供にも良い変化が現れる。

悪い先生や提案者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
生徒の中には少なからず、先生から見て堕落した、言われたままを守れない勝手気ままさがある。
しかし「生徒の堕落した気ままさ」が問題としてあるのではなく、「生徒それぞれの個性」に対してする「堕落だ」とか「哀しい」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、時代や風土の要請や選別にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わり生徒にも良い変化が現れる。

悪いグループ内の格付けを扱う者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
所属する一員たちの中に多様性があれば両極があり、対立者のランクを下げて封じたかったりする。
しかし「対立者のランクが思うほど下がらない」のが問題としてあるのではなく、「メンバーの多様性」に対してする「不適合」とか「許せない」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、信じる体系の正義や価値観にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わりメンバーにも良い変化が現れる。

堕落として問題視された生徒の行動の個性、不適合として問題視されたメンバーの思考の多様性、暴露として問題視された子供の在り方の無制限性、それぞれの癒しについて考える。

堕落として問題視された生徒の行動の個性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな行動の個性だから堕落として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実は先生の側ではなく生徒自身の側にある。
先生のどんな言動や振舞いに対し、どんな受け取り方をしたから、それを負い続けているのか?
その受け取り方による身体の感覚とよく対話をし動作で応じることで毒が流れ去り「良い修行者の自己」が自然に現れる。
問題視のない良い振舞いが開かれる。

不適合として問題視されたメンバーの思考の多様性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな思考の多様性だから不適合として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実はその扱いをした側ではなくメンバー自身の側にある。
グループでのどんな扱いに対し、どんな感情を伴ったから、それを負い続けているのか?
その感情を伴った思いの言葉を響かせ味わえる場へ属させることで毒が流れ去り「良い諦めの自我」が自然に現れる。
問題視のない良い思考が開かれる。

暴露として問題視された子供の在り方の無制限性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな在り方の無制限性だから暴露として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実は保護者の側ではなく子供自身の側にある。
保護者に何を与えられたことで、自分の脚本に何を書き入れたから、それを負い続けているのか?
その脚本に書かれたビリーフに物語から抜ける真実の大確信の薬を与えることで毒が流れ去り「良い生命活動の自分」が自然に現れる。
問題視のない良いキャラクターが開かれる。

能応所応・能感所感、能属所属・能持所聞、能与所与・能服所服について解説考察を加える。

能応所応・能感所感については天台智顗の法華玄義六上、観音玄義下に見られる。
仏はどのようにして衆生を導くのか、衆生の機根にはどのようにして仏の利益がもたらされるのか、感応道交による。
師は、あるいは人々が望んでいる教えを、あるいは個人個人に合わせた教えを、あるいは情動に振り回されないための教えを、あるいは悟ったそのものの教えを説く。(四悉檀)
弟子は日々、板に顔が映るほど毎日ピカピカに磨くように、感受性を磨き、そうなりたいと思うことで写し取っていく。
衆生は教えによって顕機という目に見える精進を重ね、応身の仏は顕益という目に見える結果を出させていく。
仏果の仏、仏因の精進行、妙法蓮華経の蓮華にあたる。

能属所属・能持所聞については法華経方便品の諸法実相について道元は「能属所属はこの経」と言い日蓮は天台智顗の「如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり」を用いる。天台智顗は実相を体としている。
御義口伝には「法体とは心と云う事なり法とは諸法なり諸法の心と云う事なり諸法の心とは妙法蓮華経なり」とあり、法体といっても心であり報身とする。
道元において只管打座によって身心脱落を得るところには能属所属の「諸法実相を仏が究めつくしている」法華経だけの法華経があり、天台智顗においてその法体は聞かれたところの法華経、止観瞑想一心三観によってよく持(たも)つ法華経である。
十如実相は相という自己、性という自我、体という自分も、力というエネルギー、作という作用も、因縁果報の次第も、本末の等しさも全て気づかれる対象として現れている諸法でありその実相である。
それでは、何が諸法に気づいているのか?否定でしか示せない「私は在る」という気づきの意識。
ストーリーを語る自我に巻き込まれず禅定にある間、未解決の因縁果報にも同化せずに離れていられるので、それは苦しみとならず楽にある。
ストーリーに戻った時、未解決の因縁果報によって苦しみが起こることも、仏が究めている諸法実相そのものであり、あらゆる諸法実相が法華経である。
上下も自他彼此もない瞑想によって苦も楽も包み込んで悠々とある。
法華経の自受用身の法体、法華経の自受法楽の智慧妙法蓮華経の経にあたる。

能与所与・能服所服について法華経寿量品の良医病子の譬えに重なるが、仏教界において過去の苦しみを直接に癒す心理セラピーのような技術が確立されていないので、持ち上げたり落としたり論ばかり忙しく、良薬が良薬でない。
法身の冥応の冥益によって全てはすでに解決しているが、如如と来る神力によって、自分自身の本質本心が隠され忘れられている。
子供は与えられている環境にあるものを、最初、毒とも薬とも知らず、丸飲みに服用する。
次に自分自身に起こる反応によって意味づけの刷り込みを獲得する。
このような心身の機能を、両親が授かっている神通の力によって授かっている。
成長するにつれ、複雑な意味付けや執着が積み重なり、解釈で見ているものを本当に有るものと思って苦しみを感じている。
いつの間にか毒を多く服用して顛倒した誤った見方をして本質本心を隠され苦しんでいるのだ。
何に対してどんな見方をしているから苦しんでいるのか?いつどんな毒を服用したのか?
どんなに恐ろしいものが出てくるかと思うかもしれないが、その果てにある本質や本心は必ず、何ものにも代えられない愛おしい生命そのものである。
与えられる良薬とは、自分自身の本質や本心を信じ出会い直す、開き蘇生し円満にする癒しの旅、対話、問う言葉、苦しみを抜く慈父、楽を与える悲母、抜苦与楽の慈悲である。
宗教界には、どの法や教えが正しいのか、どの神や仏が正しいのか、どの感覚や見方や状態が悟りなのか、そんな問いばかりがある。
今、そしてこれから、現当二世と言うと聞こえは良いが、それらの問いでは過去を癒す力がないということだ。
過去を癒せずして、凡夫そのままで仏とか、凡夫こそ仏を生んだ親だとか言っても、そのまま苦しみ続けなさいと言っているようなものだ。
隠し抑圧する方向だった神通之力を慈悲の方向に転換し、過去を癒し楽を与えるのが衆生を仏と開く親である。
自分自身の過去を振り返った時、癒されきっていて、もはや初めから仏であると言える時、その人はいつどんな時でも仏である。
神力に隠されていた冥益には既に仏であったこと、神力に隠されていた冥機には既に菩薩行がなされていたこと。
隠された本質本心を開き蘇生し円満にする与えられる薬、諸法の中で十法界に輝く自分、妙法蓮華経の妙法にあたる。

 

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