心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

「私は自分だ」は何がおかしい?じゃあ、「私」って何?

「私は自分だ」がおかしいなら、「私=自分」でないのなら、じゃあ私ってなんなのよ?

不思議な日本語の言葉遊び。
この投稿では言葉は便宜的に使います。

鏡に向かって「お前は誰だ」って言い続けるとゲシュタルト崩壊して危ないとかいうけれど、あるいはこの字ってこんな字だったかなって問い続けると自信がなくなってきたりするけれど、例えばその時、字の組成・成り立ちを理解していれば、要素に分解されても、それはただそうあるし、元の字を納得の上で再現できる。

「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」って言葉が法華経教学にあるんだけど、より高い次元に目を開かせるために、「今まで何の疑問も持たずに信じていた事って本当に正しかったのだろうか?」と疑問を生じさせるということ。法華経で、一番大事な教えの前に行われた。そして法華経の一番大事な教えは「自身」に要約できる。

あなたは一番身近な「私」というものを、どれぐらい分かっているでしょうか?

「私」の中身を知って、分解されても驚かず、納得の上で再構築できるようになりましょう。
そうすることで、「私」の何に問題が起きているのか、気づきやすくなります。

さて、そもそもですが「私は自分だ」って、なんかちょっと変ですよね?
え?変ですよね?ね!

「私には自分がある」
「あなたには自分がある」って方が、しっくりきませんか?

あるいは「私は自分でできる」とか。

「自分」ってじゃあ何なのかというと
「私の生き方」「私の考え方」「私のやり方」
そういうものに置き換えられそうです。

「自分」は反射代名詞といって、「私の生き方」の「私の」の部分は文脈の中で「あなたの」とか「彼の」とかに置き換わります。

つまり「自分探し」って「生き方探し」ってことですよね。
何に出会ったとき良く思って、そこでどんな役割をして、どんな風に居場所を得られるか?
何を正しいと思い、何を信じるか?

私は何が好きなのかハッキリ言える。そういうことが一般的に「自分がある」っていうことだと思います。

そんな「自分」には「自我」と「自己像」が伴っています。
「言葉で思考する力」と「私ってこういう人だよっていうイメージ」です。

「我思うゆえに我あり」って有名ですよね。「自ら」を「我」と思う「言語思考」です。つまり「自我」です。

なるほど、じゃあ「私は自我だ」で解決ですか?

いやいやおかしいですよね(笑)

「私は自我を持っている」「私は考える力を持っている」の方がしっくりきますよね。

つまり「私=自我」でもないです。
じゃあやっぱりほら、私って何?ってことになります。

同様に「私は自己像だ」って、すごく変ですよね。

「私は自己像を思い描いている」「私はセルフイメージを思い描いている」の方がしっくりきますよね。これ、理解できますよね。

さてさて、今、大変なことが起きているんですが、気づいていますか?

「私が思い描く私は私ではない」と言っているんですよ?分かります?

本質的には、自我が言葉で発するあらゆる「私は○○です」という紹介や宣言に対して、「それは(本質の)あなたではありません」という答えが正しい、ということです。

私とは何か?ということに対して、「私の思考」では本質的な答えを出すことができない、ということです。

では他人からではどうか?「私はあなたの思い描く他己像です」ってヤバいですよね?それでは他人の思うままに支配されてしまいます。

逆に言うと、誰かに対して「他己像を思い描く」ということは、その人に対して、「私の思うようにあってほしい」と願うことになります。

誰かに「私は○○です」と紹介されたとき、見た目や声のトーンやしぐさなどを加味して「他己像」を思い描きます。

良い人だなぁと思えば、私にとって良い人であってほしい、嫌な人だなぁと思えば、あまり関わらないでほしい、なんて願ったりします。

本質はいつもスルーされて、「像の思い描き合い」が起きているのです。

バーチャルな「自己像」「他己像」「世界像」を思い描き、思うようにあってほしいと願う。

しかしいくら「像」を押し付けても、そうは思うようにならない。

また願いの裏に、ダメな「自己像」「他己像」「世界像」を潜在意識下に抑圧しようとする力が働いています。

抑圧して蓋をして見ないようにすればするほど、多くのものを「自我が」求め、すごい勢いで思いが展開します。攻撃的になったり、否定的になったり、考えれば考えるほど深みにはまったりします。

仏教でいう「一切皆苦」の仕組みです。世界から分離した「自分」を生きていると苦しみの方が多く見えるのです。

情報量がパネェけど、まだ折り返しです。

呼吸が浅くなっていませんか?呼吸に意識を向けてゆったり大きく息をしてください。

最近見たyoutubeに面白いものがありました。https://www.youtube.com/watch?v=7WAHPmY-B70握りこぶしを作って呼吸をすると自然に胸で息をし、親指人差し指中指を開いて小指と薬指だけ曲げていると自然とおなかで息をします。やってみておなかで息をするリラックス状態を経験しましょう。

さて世界から分離したバーチャルな「自分」でない、呼吸に意識を向けているときはただ呼吸、分離のないあるがままを仏教で「自然(じねん)」と言います。「おのずからしかなり」「あるがまま」です。

さきほど、おなかで息をしようと思っておなかで息をしたのではなく、小指と薬指を曲げたことによって自然におなかで呼吸しました。「自我」によるものではなく「自律的」な活動です。

バーチャルでない「自然(じねん)」には、全ての活動は「自律的」になされている。仏教でいう「諸法無我」です。これは「知性の否定」ではなく「本質の知性に主体者がいない」ということです。生命の設計者という主体者はいないということです。にもかかわらず生命に満ちた地球があるということは、ここには愛や知性が満ちているということです。

そしてその「自律的活動」は「それ自身」によってなされています。手の形によって呼吸の仕方が変わるのは「肉体自身」によってなされています。

「肉体自身」に対して仏教では「不浄観」を言います。「浄い理想の自己像」を押し付けても苦しみとなります。どんな浄くないありようも、「それ自身」としてあるがままにあるのです。

そんな「自然(じねん)」とは誰にもコントロールされることなく変化の止むことのない「諸行無常」です。引き止められるもの、つかみ続けられるものはありません。形あるものはいつか壊れ、命あるものはいつか死にます。

これは私の独自解釈ですが、少しまとめましょう。思いに意識の向いた分離した個の私の人間界(六道)では自己-自分-自我、瞑想に意識の向いた空の私の仏道界(三乗)では自身-自然-自律、

仏道界 自身-自然-自律
 人間界 自己-自分-自我」となります。

自身-自然-自律は瞑想で落とし込む性質のもので、頭で理解しようとすると、あっという間に「自身」はバーチャルイメージの「自己像」に置き換わり、主体者のいない愛や知性の「自律」は判断しジャッジする「自我」の餌食となり、諸行無常の「自然(じねん)」の世界から分離した「自分」を生み出します。

「私は自然(じねん)だ」や「私は自律だ」は、よく分からない言葉ですね。どういう言い方にすれば良いかを「考える」ものではありません。瞑想で落とし込む性質のものです。

そうすると、意識の向けどころさえわかれば、瞑想の達人でなくても、何者でもないけれども気づいている意識、観察している事にも気づいている無/空の「本質の私」があると気づけます。
六道+三乗の九界に対する仏界です。

もちろん、瞑想だけして、「本質の私」にだけいても社会生活を営めません。出家修行者でない人に対してそんなことはお勧めしません。それより、適度にバランスの良いことが大切です。

さて、「私は自身だ」・・・ん?「私は私自身だ」・・・うん。「私は私それ自体だ」・・・まぁ、そりゃそうですよね?あれぇ~?意味通ってる?

ここが落とし穴です。

「私は私それ自体だ」なんて「考えた瞬間」に「自然(じねん)」から分離した「自分」を生み出し「自己像」を照覧しているのです。
つまり、「私は私それ自体だ」への本質からの答えは、「それは(本質の)あなたではありません」ということになります。

スピリチャルでも、ここまで説明するものは多くありません。華やかに見えても理想像を思い描き、現実とのギャップにもがいている、あるいは今はそうでなくても苦しむことになる、かもしれません。
「自身」と「自己像」の違いに意識を置いてマインドフルネス瞑想をしてみると良いでしょう。

さて、こんなところまで読み進めてくれるなんて、あなたはなかなかの猛者ですね。
もうちょっと良いですかね?

もう少しニュアンスを深め、また、仏教とセラピーの違いにも触れてみたいと思います。

仏教では「個人の私」があたかも現実そのもののようにあることを五蘊仮和合(五陰仮和合)と言います。
色受想行識の五つの要素が集まって仮に「個人の私」をなしているというものです。

色とは五官がある「肉体自身」です。
受とは五官が「自然(じねん)」に刺激を受け取ることです。
想とは受けた情報から「自己像・他己像・世界像」を思い描くことです。
行とは思い描いた像に「自我の思考」が思いを付け足して膨らませることです。
識とは膨らんだストーリーを生きているのが「自分」だと認識することです。

そうすると、「自律」の要素が抜けています。主体者のいない愛や知性の「自律」は、個を超越した目指される仏の智慧という見方がされます。なので仏教とは「瞑想して自我を抑え智慧を開きなさい」ということがベースになります。
「行」「識」の流れが「智慧」に置き換わると、「色」「受」「想」「智慧」になります。方向性としては「智慧の自己像・智慧の他己像・智慧の世界像」の仏教文化が花開きます。しかし「像」の時点で、分離分断側であり、宗派が細かく分かれたり、智慧が人我に置き換わって理屈っぽかったりもします。
「自己像・他己像・世界像」を手放し「自身の真実」を探求する修行をする宗派もあります。

心理セラピーでは、「仏の智慧」とか「自身の真実」とかのためより、「今ある悩み」に対してアクティブに「心の仕組み」「自分の仕組み」を見ていきます。
身体の声やハートの声として無意識下の「自律」の求めを聞いたり、反応を起こしている元にある潜在意識下の抑圧されていた自己像を迎えに行ったり、暴走している自我を整理したり、手の形で呼吸が変わるようにタッピングで起こる身体の状態変化を活用したり、等々をします。
とは言っても、ここまでの視点をもって、ここまでをできるセラピストはそうそういないでしょう。

さて、「自分自身」という言葉があります。
「自分を強めて言う語」らしいですが「私は自分だ」と「私は自分自身だ」では、強さに留まらないニュアンスの違いを感じます。

「私は○○だ」という言い回しを試してきましたが、最後に「これは○○の問題だ」という言い回しでニュアンスを探ってみたいと思います。
「私は○○だ」で設定した便宜的意味を引き継ぎます。

「これは自分の問題だ」分離した生き方の問題、何か自分勝手なこだわりや言動や行動で報いを受けることを意味している感じがします。
「これは自身の問題だ」先天的特徴もあるこの肉体自体の問題、この時代に人間として生を受け、どの肉体機能がいつ損なわれるか、運命や宿業を感じます。
「これは自分自身の問題だ」運命や宿業で定まった生き方の問題、他人にどうこう言われても仕方のないことに向き合う覚悟を必要とする感じがします。

良いセラピストはアドバイス的にどうこう言いません。
あなた自身の向き合う覚悟に寄り添います、おっと、話がそれました。

「これは自己の問題だ」描かれた自己像の問題、自己否定・自己憐憫・自己判断・自己診断・自己陶酔・・・がんじがらめで苦しそうです。
「これは自律の問題だ」主体者のない自律の問題、生理現象のバイオリズムや無意識での身体の反応。意志ではどうしようもなくて困る感じ。
「これは自然の問題だ」五感に諸行無常を受け取る問題、美しい景色も移ろい、好きな人とも別れが来る、寂しさや悲しさの感じ。

「自律」の問題が大きい時には、セラピストだけでなく医者にも掛かって薬で症状を調整することが必要かもしれません。
さて、これらの問題を問題視しているのは「自我」です。その「自我」を問題視すると「あれ?」ってなります。

「これは自我の問題だ」思い込み膨らませた言語思考の問題、書き出したりして自分の思考を客観視します。リアルタイムの思考観察も同じです。問題視されている言語思考と、問題視し観察している私が存在します。問題視し観察している私も言語思考するので、これも別バージョンの自我です。ですが思いに巻き込まれて膨らませ続ける自我よりずっと気づきに近いです。これをすることによって良い方の自我を育て、様々なことが明瞭でスムーズになっていきます。

さて、ずいぶんと思い付きを膨らませて理屈をこねました。
間違っているところもあろうかと思いますが、読んで下さった皆様には感謝です。

これからもセラピストとして立派にやっていけるよう精進いたします。

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