心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

そのセラピーあったら、宗教いらないんでしょ?

【解釈の楽しみ】

自分の解釈にしかすぎないことを
「いや、これは正しいはず、真実のはず」と
それを通そうとすれば

そこには窮屈さや苦しさが
あるかもしれない。

じゃあ虚構の一切に干渉せず
解釈をまったく用いないならば

どんなことが起こるだろうか?

まぁ、そんなことはいいんだ。

物語を読むことを楽しむ。

独創的に深読みをする。

「これは作者の意図とは違うかもしれないけど
こう読んだ方が面白い」

そのスタンスが

「うわ、見事な読み方をするな」

と感嘆させるレベルの人は
それがコンテンツとなる。

例えば髑髏万博(しゃれこうべばんぱく)

https://www.youtube.com/watch?v=-Z9H2ae5dKM&list=PL5wu9XY_klujDIfcWbUqnEWdwbQgu2fgu

例えば岡田斗司夫

https://www.youtube.com/watch?v=unZSPIcgO1M&list=PL1TOJRTrkimJw91Iy5LUfC5I-RO6e1KUW

そんじょそこらの考察とかとは
一味違うと思うのだが

どうだろうか?

今回、自分で小説を書いた身としては
そこまで深読みされたとしたら

有難いだろうと思う。

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この小説、誰がどんな風に読んでくれるだろうか?

「この本の初版はね、『はじめに』のしょっぱな
シリアスな、そこ間違っちゃいけないって所で誤字があるんだよ。

この作者、大義名分を掲げようとしてるけど
実はそこには、そこまで思い入れ無いんじゃないかな?

というか本編がすごすぎて
大義名分が薄らいでるんじゃないかな?

そのセラピーあったら、宗教いらないんでしょ?って。

本編はね、読みにくい分かりにくい箇所は実際多い。

けど本当に意味分かったらこれすごいよ。

普通仏教だと、煩悩とか我見とか
抑制する方向か薪とする方向かなんだけど

ただありのままに開いていく。

確かに書かれている理屈からすると
抑制したり薪としたりするより

開いて解体する方がスムーズだろうと思える。

もしかしたら
色即是空、空即是色まで

ストンと、あ、そういうことなんだって
分かるかもしれない。

そういう内容でありながら、
ちゃんとストーリーがある。

難点としては、登場人物が
明らかにある特定の宗教をしていて

それだけで嫌悪感を抱く人がいるかもしれないことと

笑えるかもしれないけど
ちょっとふざけすぎだろうという内容もあることかな?

まぁ、好きな人は好きだと思う。

セラピーや悟りみたいなものの理解が難しい分
ストーリーはシンプルになっていて

内容の割にはすごく読みやすいと思います。

ストーリーはシンプルだからこそ
そういう特殊な経験が重なるのなら
泣けるかもはしれないけど

面白く感じるかは
ちょいちょい入るギャグのセンスが合うかも関連する。

でもそれ以上に、すごい何かが書かれていて
読んだら、すごい何かが起こるんだよ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版 :‖見ましたか?

何かそれぐらいの
25年分の何かの完結を味わうような

そういうものがあります。

それは因果の終極なんだって書いてありますね。

仏教の新解釈でもあり
セラピーの新解釈でもあるようなので

わりと攻めてる本だと思います。

人生に役立つ新しい視点を
実際に手に入れられる可能性も
充分にある本です」

「この記事は役に立ちましたか?」

本にしました

この度、『妙法セラピー物語』という
小説を書かせていただいた。

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私が仏教の洞察をもって心理セラピーを深めた
主題セラピーについて紹介する内容だ。

主題セラピーにおいて苦の原因は
抑制するものではなく
解体するものとしてある。

解体されるのであるから
気がつけば手放されている。

天台摩訶止観において
生命の無知に対して
十二因縁を観ることが説かれているが

心理セラピーの様々なテクニックや
「人生の脚本」として一切を観られる側に置きうる方法を使う。

このような見地から
日蓮仏法へのアンチテーゼも書いているが

そこにいる一人の学会員に対しては
愛をもって描いてもいる。

難しいだけの解説書ではなく

笑い、成長、愛、涙の読みやすい創作物語
として仕上げることができた。

自分の生命の主題を開くヒントを得たり
自身の意見を再確認して対話のきっかけにしたり

活用していただければ幸いである。

妙法蓮華経』の結経である
仏説観普賢菩薩行法経』にある偈

    若有眼根惡 業障眼不淨
    但當誦大乘 思念第一義
    是名懺悔眼 盡諸不善業
    耳根聞亂聲 壞亂和合義
    由是起狂亂 猶如癡猨猴
    但當誦大乘 觀法空無相
    永盡一切惡 天耳聞十方
    鼻根著諸香 隨染起諸觸
    如此狂惑鼻 隨染生諸塵
    若誦大乘經 觀法如實際
    永離諸惡業 後世不復生
    舌根起五種 惡口不善業
    若欲自調順 應勤修慈心
    思法眞寂義 無諸分別相
    心根如猨猴 無有暫停時
    若欲折伏者 當勤誦大乘
    念佛大覺身 力無畏所成
    身爲機關主 如塵隨風轉
    六賊遊戲中 自在無罣礙
    若欲滅此惡 永離諸塵勞
    常處涅槃城 安樂心恬怕
    當誦大乘經 念諸菩薩母
    無量勝方便 從思實相得
    如此等六法 名爲六情根
    一切業障海 皆從妄想生
    若欲懺悔者 端坐念實相
    衆罪如霜露 慧日能消除
    是故應至心 懺悔六情根

セラピーの視点から要約すれば

もしも自分が長い間
「このことこそが正しい」と思って
積み重ねてきたものが

その見方が間違っているかもしれない

例えば「その行為は私には悪に見える」
というような我見があるとき

一心に「見方の正しさがある」という
積み重ねた罪を懺悔して

悪業を滅し尽くす
正しい方法で深く思念しなければなりません。

あるいは「その言葉は私には悪に聞こえる」
というようなことで
人間関係の調和を壊すことは

本能的な衝動のみによって生きる
猿のようでみっともない。

声は瞬間に聞こえる言葉だけが流れ
ただ全ての物事は空であり

固定され持続する悪のような実体はない。

そのような空が腑に落ちて観れるならば
正しく聞くままに聞くことができるようになる。

何かを嗅ぎ分ける感覚もそう。

ついつい快不快を頼りにしてしまうが
諸法実相に適ってこそ間違いがない。

舌に業障が現れれば
「あなたは二乗根性が強い」とか
ジャッジする言葉を投げつけたりします。

自身の言葉に気づき、慈悲への努力をし、
真実不動の瞑想を修し、
分け隔てする考えを捨てなければなりません。

心に業障が現れれば
猿のように落ち着きがなく

目先を変えてはそれを非難するような衝動に駆られ
じっとしていることができない。

心身の法を落とし込んだ身を持った人
その人が身につけた救済のテクニックの力
その人がホールドして導くセッション

そこに意識を向けなければならない。

人間として生まれたその身体は
その人がその人であるために大切なものであるが

風が吹けば塵が舞うように
起こることに逐一反応して振舞う。

身体に宿している五感や心が
好き放題にそこら辺のものを拾って
制御できてはいないのだ。

このような乱れの業障から離れるには
吹く風を滅すれば良いのだろうか?
舞う塵を滅すれば良いのだろうか?

一切の真実の善性は何を本源としているのか?
そこに思いを凝らさなければなりません。

このような六根に対する方法によって
ありのままの悟りの清浄な六根にしていけるのです。

一切の業障という身体に宿した乱れとは
「○○のように見える」
「○○のように聞こえる」
「○○と嗅ぎ分けられる」
「○○と決めつけて伝える」
「○○が気になって落ち着かない」
「○○に反応して制御できない」
というような

ありもせぬことを思う妄想から生み出されるのです。

だからこれを懺悔するためには
これと距離をとって気づき俯瞰する必要があるのです。

静かに瞑想して諸法の実相を深く思念する必要があるのです。

そこへ至る解体の化導、セッションによって

宿業であれトラウマであれビリーフであれ
あたかも霜や露のごとき幻のように

実相を観ずる智慧の日光に照らされれば、たちまち雲散霧消する。

ただひたすらに実相を観ずることによって、
六根を清浄しなければならない。

というような内容になる。

妄想による混乱した生命

そこから脱するために必要な
諸法の実相を観るとは

いかにすればできるのか?

事の一念三千の本尊を
観心するためには

どうしなければならないのか?

その一念心を観るためには
その一念心は観られる側に置く必要がある。

一念心が観られる側に置かれるならば
観る側はその同じ一念心ではない。

九識心王真如からすれば
観られる側に置かれ得た一念心は
雑味であり清浄ではない。

観察することができるならば
手放すことができる。

仏教の基本姿勢ではないか。

一念心は不可得、不可説である。

密教的なものにおいては
煩悩を薪とするとして手放さず

想うことのできるものを手に入れよう
唯一の根源なるものを説き顕そう

そのような方向の違いがある。

そこでは我見の教主となり、
客観的知性を否定し情動で認知の歪みを押し付ける

保身の師匠となり、
行動の自由を否定し私利私欲を優先して躍起になる

与毒の親となり、
放置や罰で身体を否定し迷い惑いで罵って多重拘束する

手放さず膨れ上がって
他者の境界線を越え

そのように聖道正器を破壊するかもしれない。

だからといっても
「願いは必ず叶う」と教えられ発展した教団の人々に

いまさらに懺悔を求め抑制を課すのも難しい。

五停心観
不浄観 --- 貪(欲望)を抑制する
慈悲観--- 瞋(怒り)を抑制する
因縁観 --- 痴(無知)を抑制する
界分別観 --- 我執を抑制する
数息観 --- 尋・伺を抑制する

そのどこに自受法楽があり
衆生所遊楽があるのかと。

そういった事の解決に向けて
『妙法セラピー物語』を書いた。

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毒親 毒師 毒主 する側される側 全対応の癒しの考察

ただ苦しみから解かれるために、何が苦しみを起こしているのかを知るために、考察をしている。

毒親という言葉があるが、毒親・毒師(先生)・毒主(グループの権限)がどんな影響を与えるか仮に分けてみる。

悪い親や保護者は自分の信念体系を中心に置いて、正しくない子供に体罰等を加える。
その子供自身の信念体系に寄り添わず、肉体的な苦痛を与える。
子供の肉体のキャラクターの自分と、精神の信念体系(脚本)の自分の形成に関わる。

悪い先生や提案者は自己の感性で何が役立つかを決めて、勝手な生徒が自由に振舞うことを制限する。
その生徒の能力や感性に寄り添わず、することへの苦痛を与える。
生徒の人間関係の中で振舞いをする自己と、欲求処理の中で受け取り方をする自己の形成に関わる。

悪いグループ内の格付けを扱う者は自我の好き嫌いで判断し、対立的な一員が自分の考えを起こすことを否定する。
その一員の情緒やストレス状態に寄り添わず、浮かぶ考えへの苦痛を与える。
一員の正誤善悪を判断する知性の自我と、好き嫌い嬉しい悲しいを感じる情緒の自我の形成に関わる。

仏教にヒントを得た師弟・主従・親子の究極の関係を、理解の進んでいるところから考察を進める。

「仏のような振舞い(良い師としての応身の聖人)」と「良い修行者の自己」は能応所応、能感所感の関係になる。
感じられたところの仏のような振舞いとは、相手の受け取り方や持っている才能に「よく応じ」良い受け取り方を喜び良い振舞いをする者。
応じられたところの良い修行者の自己とは、教化された精進の方法をする中で「よく感じ」良い振舞いを尊び良い受け取り方をする者。
感応道交で育て未来を豊かにする。修行者は遠い未来世に仏になる。

「あるがままの真実(良いグループの報身の法体)」と「良い諦めの自我」は能属所属、能持所聞の関係になる。
聞かれるところのあるがままの真実とは、一員の好き嫌い嬉しい悲しいを「よく属させ」良い情緒を喜び良い知性のあるところ。
属されたところの良い諦めの自我とは、起こっていることのありのままに意識を向けて「よく持(たも)ち」良い知を学び良い情緒を起こす者。
諸法実相に参じ今ここで安心安全になる。今世でサレンダーであるときは仏と開く。

「毒を抜き本心を取り戻す薬(良い親としての法身の神通之力)」と「良い生命活動の自分」は能与所与、能服所服の関係になる。
服されるところの毒を抜き本心を取り戻す薬とは、精神の脚本に本心のままの信念体系を「よく与え」良い信念体系を喜び良い身体の成長を見守る生命の良薬。
与えられたところの良い生命活動の自分とは、その薬が味も香りも色も良いと知り「よく服し」良いキャラクターの自分を蘇らせ良い信念体系を輝かせる者。
久遠実成を分与し過去のトラウマを解体する。生死を貫く生命が遠い過去世からの仏と輝く。

悪い親や保護者、悪い先生や提案者、悪いグループ内の格付けを扱う者、それぞれの癒しについて考える。

悪い親や保護者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
子供というものは大抵、親にとって恥ずかしい行動をとったりするものである。
しかし「子供の正しくない状態」が問題としてあるのではなく、「子供としては正常な在り方」に対してする「正しくない」とか「恥ずかしい」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、先祖代々の禁止や秘密にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わり子供にも良い変化が現れる。

悪い先生や提案者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
生徒の中には少なからず、先生から見て堕落した、言われたままを守れない勝手気ままさがある。
しかし「生徒の堕落した気ままさ」が問題としてあるのではなく、「生徒それぞれの個性」に対してする「堕落だ」とか「哀しい」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、時代や風土の要請や選別にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わり生徒にも良い変化が現れる。

悪いグループ内の格付けを扱う者に対し、責めではなく、愛のある好奇心で気づきに導く。
所属する一員たちの中に多様性があれば両極があり、対立者のランクを下げて封じたかったりする。
しかし「対立者のランクが思うほど下がらない」のが問題としてあるのではなく、「メンバーの多様性」に対してする「不適合」とか「許せない」とかの「反応」に好奇心を向けるべき要因がある。
何に反応しているのか?どうして反応しているのか?
個人的な要因かもしれないし、信じる体系の正義や価値観にかかわることかもしれない。
それが洗い流されれば反応は消える。
それが伝わりメンバーにも良い変化が現れる。

堕落として問題視された生徒の行動の個性、不適合として問題視されたメンバーの思考の多様性、暴露として問題視された子供の在り方の無制限性、それぞれの癒しについて考える。

堕落として問題視された生徒の行動の個性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな行動の個性だから堕落として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実は先生の側ではなく生徒自身の側にある。
先生のどんな言動や振舞いに対し、どんな受け取り方をしたから、それを負い続けているのか?
その受け取り方による身体の感覚とよく対話をし動作で応じることで毒が流れ去り「良い修行者の自己」が自然に現れる。
問題視のない良い振舞いが開かれる。

不適合として問題視されたメンバーの思考の多様性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな思考の多様性だから不適合として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実はその扱いをした側ではなくメンバー自身の側にある。
グループでのどんな扱いに対し、どんな感情を伴ったから、それを負い続けているのか?
その感情を伴った思いの言葉を響かせ味わえる場へ属させることで毒が流れ去り「良い諦めの自我」が自然に現れる。
問題視のない良い思考が開かれる。

暴露として問題視された子供の在り方の無制限性に対し、愛のある好奇心で気づきに導く。
どんな在り方の無制限性だから暴露として問題視されたのか?
それを問題視し続けているのは実は保護者の側ではなく子供自身の側にある。
保護者に何を与えられたことで、自分の脚本に何を書き入れたから、それを負い続けているのか?
その脚本に書かれたビリーフに物語から抜ける真実の大確信の薬を与えることで毒が流れ去り「良い生命活動の自分」が自然に現れる。
問題視のない良いキャラクターが開かれる。

能応所応・能感所感、能属所属・能持所聞、能与所与・能服所服について解説考察を加える。

能応所応・能感所感については天台智顗の法華玄義六上、観音玄義下に見られる。
仏はどのようにして衆生を導くのか、衆生の機根にはどのようにして仏の利益がもたらされるのか、感応道交による。
師は、あるいは人々が望んでいる教えを、あるいは個人個人に合わせた教えを、あるいは情動に振り回されないための教えを、あるいは悟ったそのものの教えを説く。(四悉檀)
弟子は日々、板に顔が映るほど毎日ピカピカに磨くように、感受性を磨き、そうなりたいと思うことで写し取っていく。
衆生は教えによって顕機という目に見える精進を重ね、応身の仏は顕益という目に見える結果を出させていく。
仏果の仏、仏因の精進行、妙法蓮華経の蓮華にあたる。

能属所属・能持所聞については法華経方便品の諸法実相について道元は「能属所属はこの経」と言い日蓮は天台智顗の「如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり」を用いる。天台智顗は実相を体としている。
御義口伝には「法体とは心と云う事なり法とは諸法なり諸法の心と云う事なり諸法の心とは妙法蓮華経なり」とあり、法体といっても心であり報身とする。
道元において只管打座によって身心脱落を得るところには能属所属の「諸法実相を仏が究めつくしている」法華経だけの法華経があり、天台智顗においてその法体は聞かれたところの法華経、止観瞑想一心三観によってよく持(たも)つ法華経である。
十如実相は相という自己、性という自我、体という自分も、力というエネルギー、作という作用も、因縁果報の次第も、本末の等しさも全て気づかれる対象として現れている諸法でありその実相である。
それでは、何が諸法に気づいているのか?否定でしか示せない「私は在る」という気づきの意識。
ストーリーを語る自我に巻き込まれず禅定にある間、未解決の因縁果報にも同化せずに離れていられるので、それは苦しみとならず楽にある。
ストーリーに戻った時、未解決の因縁果報によって苦しみが起こることも、仏が究めている諸法実相そのものであり、あらゆる諸法実相が法華経である。
上下も自他彼此もない瞑想によって苦も楽も包み込んで悠々とある。
法華経の自受用身の法体、法華経の自受法楽の智慧妙法蓮華経の経にあたる。

能与所与・能服所服について法華経寿量品の良医病子の譬えに重なるが、仏教界において過去の苦しみを直接に癒す心理セラピーのような技術が確立されていないので、持ち上げたり落としたり論ばかり忙しく、良薬が良薬でない。
法身の冥応の冥益によって全てはすでに解決しているが、如如と来る神力によって、自分自身の本質本心が隠され忘れられている。
子供は与えられている環境にあるものを、最初、毒とも薬とも知らず、丸飲みに服用する。
次に自分自身に起こる反応によって意味づけの刷り込みを獲得する。
このような心身の機能を、両親が授かっている神通の力によって授かっている。
成長するにつれ、複雑な意味付けや執着が積み重なり、解釈で見ているものを本当に有るものと思って苦しみを感じている。
いつの間にか毒を多く服用して顛倒した誤った見方をして本質本心を隠され苦しんでいるのだ。
何に対してどんな見方をしているから苦しんでいるのか?いつどんな毒を服用したのか?
どんなに恐ろしいものが出てくるかと思うかもしれないが、その果てにある本質や本心は必ず、何ものにも代えられない愛おしい生命そのものである。
与えられる良薬とは、自分自身の本質や本心を信じ出会い直す、開き蘇生し円満にする癒しの旅、対話、問う言葉、苦しみを抜く慈父、楽を与える悲母、抜苦与楽の慈悲である。
宗教界には、どの法や教えが正しいのか、どの神や仏が正しいのか、どの感覚や見方や状態が悟りなのか、そんな問いばかりがある。
今、そしてこれから、現当二世と言うと聞こえは良いが、それらの問いでは過去を癒す力がないということだ。
過去を癒せずして、凡夫そのままで仏とか、凡夫こそ仏を生んだ親だとか言っても、そのまま苦しみ続けなさいと言っているようなものだ。
隠し抑圧する方向だった神通之力を慈悲の方向に転換し、過去を癒し楽を与えるのが衆生を仏と開く親である。
自分自身の過去を振り返った時、癒されきっていて、もはや初めから仏であると言える時、その人はいつどんな時でも仏である。
神力に隠されていた冥益には既に仏であったこと、神力に隠されていた冥機には既に菩薩行がなされていたこと。
隠された本質本心を開き蘇生し円満にする与えられる薬、諸法の中で十法界に輝く自分、妙法蓮華経の妙法にあたる。

 

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「人」は「今ここ」に能属所属しているので、久遠元初の法を立てて能属所属が言えない

「能属・所属」というのは、よくよく調べれば、無くはない言葉のようです。

玄奘の書いたもの、湛然(妙楽)の書いたもの、道元の書いたもの等に出てきます。

その中でも、道元の書いたものがズバリです。

内容を考慮してみると、日蓮にはきっと、「能属・所属」は言えない。

「能属・所属」と言った瞬間に、能所不二によって、属すことの上も下もなくなり、絶対に敬わなければならない対象が消えてしまうのだ。

日蓮仏法では付属という特別な一人のことしか言えない。

眷属という一方的な関係しか言えない。

日蓮仏法では法華経を謗って地獄に落ちるのを防ぎ、本門の本尊を信じ、そこで日蓮の特別な南無妙法蓮華経を唱えなさい。

これだけが特別なんだという法。

そして唱え広めていきなさい。

相手を説き伏せて眷属を拡大しなさいという一方性。

室町時代以降に拡充された大石寺系の教義には、全ての凡夫には仏性があるとしながらも、法体を有しているのは唯受一人の法主戒壇の大御本尊。

南無妙法蓮華経は何か常識を超越した、やたらめったらすごいエネルギーの宇宙の根本法で、法体を有する法主から法体である大御本尊の写しの御本尊を頂いて祈らなければ功徳は得られない。

酷く上下関係があり、一生成仏はできるのかできないのかダブルバインドで消耗する。

信徒は供養を捧げ続けなければならない。

諸法実相は、はるか久遠元初の南無妙法蓮華経の讃嘆でしかない。

ここにおいて、天台の諸法実相が中道第一義諦である観念観法も否定され「ただ南無妙法蓮華経」になっている。

日蓮から見れば禅宗の「諸法実相は本来の面目のありのままの今ここ」というのは、話の通じない天魔に見えるのだろう。

しかし、諸法として現れている私であれ誰であれ何であれ、「今ここの諸法実相」に「能属・所属」している。

それは一切、あらゆる存在に対して平等に開かれている。

仏といってもただ、この一切平等に開かれた諸法実相を究めつくしているにすぎない。

宗門と決別した創価学会で、「法華経智慧」の内容に、「菩薩仏」というアイデアがあるが、そこだけ見れば日蓮の教義より道元のそれに近そうだ。

それでも、どんなアイデアを持ってきてどんな方向付けをしようとしても、「宇宙根源の法である南無妙法蓮華経」を中心に立てる限り、「自分の今ここを中心にこれを解明して悟る」者は現れない。

池田大作が表から消えて、学会の首脳陣は自分たちの特別化を進め、一方的な従属関係を強化している。

そのようにして「能属・所属」が失われれば、平等ではなく、皆成仏道はなく、純円一実はなく、仏意仏勅はない。

「能属・所属」というのが、そんな重大なことであるならば、禅宗ではそれが盛んに言われているのかといえば、ネットでの検索上、そのような感はない。

禅宗自身にとっては、特に引っかかるところでもなくさらっと流しているのか、それとも江戸時代の寺請制度や本末制度によって禅宗においても「能属・所属」が骨抜きになっているのか、はたまたネットで見つけにくいだけで本当は重要視されているのか、それは分からない。

こと、「能属・所属」においては、日蓮より道元の方が優勢に思える。

その他については未だ語れるほど道元について私は詳しくはない。

以下、関連資料。

道元の『正法眼蔵』の諸法実相(法華経方便品・十如是)についての中の「一切菩薩 阿耨多羅三藐三菩提 皆属此経 此経開方便門 示真実相」(法華経法師品)に触れた部分に「能属・所属」の文言を見つけました。

 いはゆる一切菩薩は一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類
にあらず、老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩
と、二人にあらず、自他にあらず。過現当来箇にあら
ざれども、作仏は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏
し、妙覚地に成仏す。無量百千万憶度作仏せる菩薩あ
り。作仏よりのちは、行を廃してさらに所作あるべか
らずといふは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。
 いはゆる一切菩薩は一切諸仏の本祖なり。一切諸仏
は一切菩薩の本師なり。この諸仏の無上菩提、たとひ
過去に修証するも、現在に修証するも、初中後ともに
「この経」なり。能属・所属、おなじくこの経なり。
この正当恁麼時、これ此経の一切菩薩を証するなり。

とあります。

弘前大学学術情報リポジトリ 矢島 忠夫 正法眼蔵『諸法実相』の説明を添えますと

 ここであらゆる菩薩(仏道修行している仏)と言って
いるのはあらゆる仏(仏であることを実証している修行者)
のことです。仏たちと菩薩で類が異なっているわけで
はありません。どちらかが年長でどちらかが年少で
あったり、どちらかが優秀でどちらかが劣等であるの
ではありません。この菩薩とあの菩薩で、二人なので
はありません、自他の違いもありません。過去のこと
でも現在のことでも未来のことでもありませんが仏を
作す(仏であることを実証する)ことは菩薩の道を行
う人(仏道修行している仏)がかならず為すこと(法
儀)です。
 初めて[仏道修行する]心を発したときに[すでに]仏を
成しているのです、[すでに]絶妙な目覚めの境域(妙
覚地)で仏を成しているのです。限りなく百千万憶回
も仏を作す菩薩がいるのです。仏を作した(仏である
ことを実証した)あとは、行い(仏道修行)をやめてもう
しなくてもよいと言うのは、いまだに仏祖の道(生き
方、歩み方)を知らない凡庸な人です。
 ここであらゆる菩薩(仏道修行している仏)と言って
いるのはあらゆる仏(仏であることを実証している修行者)
の本来の祖先のことです。あらゆる仏はあらゆる菩薩
の本来の先生なのです。この仏たちのこの上ない目覚
めは、たとえ過去に修行し実証されようと、現在に修
行し実証されようと、未来に修行し実証されようと、
[この]身[心]の以前(前世)に修行し実証されようと、
[この身]心の後(来世)に修行し実証されようと、初
めも、途中も、後も(時にかかわりなく)、[「諸法が実相で
ある」と説く]「この経」なのです。属すのも、属され
るのも、同じように「この経」なのです。まさにこの
時、この経(仏の教え、生き方)(法華経)があらゆる菩
薩[の力量を]を実証するのです。
 「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」
を、「一切菩薩、阿耨多羅三藐三菩提は、みなこの経
に属す」と読み、「阿耨多羅三藐三菩提」(この上ない正
しい差別のない目覚め)を「一切諸仏」のものとすれば、
「一切菩薩も、一切諸仏も(それぞれ独自の仕方で存在し
ているが)、ともにこの法華経に属する」と言っている
ことになるだろう。また、「一切菩薩の阿耨多羅三藐
三菩提」と読んでも、本来「諸仏のもの」である阿耨
多羅三藐三菩提が、「菩薩のもの」とされるのだから、
「一切菩薩は一切諸仏と異ならない」と理解できるだ
ろう。
「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」
を、「一切菩薩、阿耨多羅三藐三菩提は、みなこの経
に属す」と読み、「阿耨多羅三藐三菩提」(この上ない正
しい差別のない目覚め)を「一切諸仏」のものとすれば、
「一切菩薩も、一切諸仏も(それぞれ独自の仕方で存在し
ているが)、ともにこの法華経に属する」と言っている
ことになるだろう。また、「一切菩薩の阿耨多羅三藐
三菩提」と読んでも、本来「諸仏のもの」である阿耨
多羅三藐三菩提が、「菩薩のもの」とされるのだから、
「一切菩薩は一切諸仏と異ならない」と理解できるだ
ろう。
「作仏」や「成仏」が、「仏でないものが仏になる」
ことではなく、「仏が行為するように行為している(仏
を作している)菩薩においてすでに仏であることが実現
している(仏を成している)」ことであるとすれば、ま
ず菩薩でありしかる後に仏であるのでも、仏になった
後に菩薩でなくなるのでもないわけである。それを、
菩薩とは仏を師とする(仏にならって行為する)人であ
り、仏とは菩薩を祖とする(菩薩の行為において実現する)
人である、と言うのだろう。

弘前大学学術情報リポジトリ矢島 忠夫 正法眼蔵『諸法実相』8ページ目より

 

「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」は法華経法師品に出てきます。

薬王。多有人。在家出家。行菩薩道。若不能得。見聞読誦。書持供養。是法華経者。当知是人。未善行菩薩道。若有得聞。是経典者。乃能善行。菩薩之道。

薬王、多く人あって在家・出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ることあらん者は、乃ち能善菩薩の道を行ずるなり。

薬王よ、多くの人がいて在家者や出家者が悟りを求める修行者の道を行ずる時に、もしこの法華経を見たり、聞いたり、見て読み節をつけて唱えたり、書写して教えを銘記して忘ず、供養する事が出来ないならば、当然知るべきである。これらの人は、未だよく悟りを求める修行者の道を行じてはいないのだと。もしも、この経典を聞く事を得たものは、すなわちよく悟りを求める修行者の道を行じているのだ。


其有衆生。求仏道者。若見。若聞。是法華経。聞已信解。受持者。当知是人。得近阿耨多羅三藐三菩提。

其れ衆生仏道を求むる者あって、是の法華経を若しは見、若しは聞き、聞き已って信解し受持せば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たり。

生命のあるもので仏道を求める者がいて、この法華経を或いは見て、或いは聞いて、聞き終って信じ理解し、教えを銘記して忘れないならば、当然知るべきである。この人はこの上なく正しい悟りに近づく事を得たのであると。


薬王。譬如有人。渇乏須水。於彼高原。穿鑿之求。猶見乾土。知水尚遠。施功不已。転見湿土。遂漸至泥。其心決定。知水必近。

薬王、譬えば人あって渇乏して水を須いんとして、彼の高原に於て穿鑿して之を求むるに、猶お乾ける土を見ては水尚お遠しと知る。功を施すこと已まずして、転た湿える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して水必ず近しと知らんが如く、

薬王よ、例えば、ある人がのどが乾いて水を飲もうとして、あの高原に穴を掘り水を求めているとき、まだ乾いた土が出て来るのを見れば、水はまだ遠いと知る。工事を止めないで、湿った土が出て来るのを見て、ついに泥が出るようになれば、その心は確信して、水は近いと知るように、


菩薩亦復如是。若未聞未解。未能修習。是法華経。当知是人。去阿耨多羅三藐三菩提尚遠。若得聞解。思惟修習。必知得近。阿耨多羅三藐三菩提。

菩薩も亦復是の如し。若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。

悟りを求める修行者も、またこれと同じようである。もしも、この法華経を未だ聞いたことなく、未だ理解せず、未だ習い修めることができないならば、当然知るべきである、この人はこの上なく正しい悟りから離れてなお遠いと。もしも、この法華経を聞き、悟り、心に浮かべてよく考え、修習する事ができたら、この人は必ず一切の真理をあまねく知った最上の智慧に近づく事ができたのであると知れ。


所以者何。一切菩薩。阿耨多羅三藐三菩提。皆属此経。此経開方便門。示真実相。是法華経蔵。深固幽遠。無人能到。今仏教化。成就菩薩。而為開示。

所以は何ん、一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり。此の経は方便の門を開いて真実の相を示す。是の法華経の蔵は深固幽遠にして人の能く到るなし。今仏、菩薩を教化し成就して為に開示す。

理由は何故かというと、一切の悟りを求める修行者の一切の真理をあまねく知った最上の智慧は、皆この経に属しているからである。この経は人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段の門を開いて、真実の姿を示す。この法華経の蔵は、深く堅固で奥深くはるかであるから、人はよく至ることはできない。今、仏は悟りを求める修行者を教化し成就させるために、これを説き明かし示す。


薬王。若有菩薩。聞是法華経。驚疑怖畏。当知是為新発意菩薩。若声聞人。聞是経。驚疑怖畏。当知是為。増上慢者。

薬王、若し菩薩あって是の法華経を聞いて驚疑し怖畏せん。当に知るべし、是れを新発意の菩薩と為づく。若し声聞の人是の経を聞いて驚疑し怖畏せん。当に知るべし。是れを増上慢の者となづく。

薬王よ、もし悟りを求める修行者がいて、この法華経を聞いて、驚き疑い、おそれるならば、当然知るべきである、これは、出家して間もない悟りを求める修行者であると。もしも、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた阿羅漢を目指す修行者がいて、この経を聞いて、驚き疑い、おそれるならば、当然知るべきである。これは高慢な者であると。

妙法蓮華経法師品第十
妙法蓮華経法師品第十(ほっしほんだいじゅう)現代語訳 | 正法

「能属・所属」あってなお、どちらが上もどちらが下もなく、自他もない、自由は、諸法実相の智慧が「能属・所属」として共有されていく方向にある。

世界大百科事典 第2版「諸法実相」の解説
しょほうじっそう【諸法実相】
仏陀の〈さとり〉の世界から見た森羅万象の真実のすがたという意。諸法とはあらゆる存在,実相とはありのままの真実のすがたのこと。《法華経》の方便品(ほうべんぼん)には,この実相の世界は仏陀の知見したもうところ(仏知見)によってすべて絶対平等である真実のすがたが照らし出されると説かれる。諸法実相は大乗仏教の根本思想として重視されるが,そのとらえ方には発展が見られる。三論宗では空(くう)の理を諸法実相であるとし,天台宗では空・仮(け)・中(ちゆう)の三諦(さんたい)(真理を示す三様の論理)を統一した中道第一義諦(ちゆうどうだいいちぎたい)の理と理解し,禅宗では〈柳は緑,花は紅〉といい,本来の面目が諸法実相を表すとする。

正当化の毒からの解放

同化している自分を正当化するために自我は、自分の自我に対し、以下のような考えを起こす。

「この正しい考えは私がしている」(知性の自我)
「この間違った動機は相手が持っている」(情緒の自我)

同化している自分を正当化するために自我は、自分の自己に対し、以下のような考えを起こす。

「このことは貴方(や人や社会)のためにしている」(人間関係の自己)
「貴方のすることは私(や人や社会)のためになっていない」(欲求関係の自己)

同化している自分を正当化するために自我は、自分に対し、以下のような考えを起こす。

「ゆえに私は正当に評価されるべき人間として映るはずだ」(外向きのキャラクターの自分)
「ゆえに私が邪魔を排除するのは正しいことであるはずだ」(内側の信念の脚本の自分)

自分の自我(判断)は、自分の自己(すること)を正当化している。

正当化された自分を実現させるために自己は、様々な行動を起こしている。

このようなことが横行する世界で、心の敏感な人は傷付いている。

およそ仏教であるならば、瞑想などによって自我自己自分の苦しみの世界を理解し、悟りの智慧によって解脱した自由を目指すべきであろう。

ところが仏教のはずであっても、日蓮系、創価学会等においては、様子が違う。

例えば「魔を切れ」「魔に負けるな」という言葉を、自分たちの正当化を強化するために使い、自分たちの正当化を強めて、対立する苦しみと戦い続け、引きずり続ける傾向があるかもしれない。

世界から「貴方たちは正しい素晴らしい」と言われている幻想を植え付ける。
日顕宗や共産党が悪辣なことをしていると言って敵に対する感情を起こさせる。

広宣流布という真の平和のためにしていると植え付け、何でも正当化して行動する。
創価の指導を守らないですることは真の幸せや平和のためにならないとして排除する。

ゆえに創価の中で幹部であるほど偉いという勘違いが生まれる。
ゆえに創価の幹部を批判するものを排除するのは正しいという理屈が生み出される。

もはや、そんな世界となればそれこそ、真の幸せや平和は遠のくというものだ。

「活動に打ち込めない弱い自分の一念を、叩き直してくださいと御本尊様に祈れ」というのは考えてみれば、狂気じみた指導性ではないだろうか?

貴方が活動に打ち込めないのは、貴方の情緒に変な動機があるせいだ、私が貴方を叩き直そうとしているのは貴方のためであり、貴方が世のため人のために働くためである、そのための正しい考え方や知識は私の方が持っているのだ、最も尊い御本尊様をより信じ活動している私の方が偉いんだ、貴方の生活から信心活動の邪魔になるものの一切は排除しなさい。

そういう正当化され肥大化した自我の世界に巻き込むことが折伏とされる。

自我を正当化できることは自我にとってもちろん「気持ちいい」。

しかし「信心活動しない変な動機」は、消えたのではなく、持ち主を変えて存続する。この「変な動機」を持っているのは私ではなく、正しい信心を知らないで偽善をしているアイツらだ。アイツらが一見正しそうなことを言っても正しそうなことをしても動機が間違っているのだから全て間違いだ。だからアイツらを執拗に攻撃することは正しい。

そうやって、本当は自分の側にあるものを相手に投影して攻撃し続ける。

例えば幹部批判したと解釈された者を「魔に侵された」とか「共産党のスパイだった」とか言って、組織から切り離して排除する。

これが平和の在り方だろうか?これが幸せな姿だろうか?

真面目で繊細な人間は、明に暗に「活動に打ち込めない弱い自分の一念を、叩き直してくださいと御本尊様に祈れ」というメッセージを受け取り苦悶する。

もし肥大化した自我に巻き込まれることなく見ることができるならば、「変な動機」というものは、「信心活動しない」という一点だけで、理由も聞かずに一蹴され排除されるべきものなのだろうか?

本当なら、例えば親は子に対して、どんなにダメなところがあるように見えても、信じて、信念に寄り添って、「どうしてなの?」と聞いてあげるべきではないだろうか?

そういうことができずに、世間体とかの方向に自我が肥大化して、子供に寄り添えない親を、最近では「毒親」とか言う。

何も言わなくても皆が実現できているのであれば「一家和楽の信心」というのが「学会永遠の五指針」の一番目にくることは無いだろう。

第二は、「幸福をつかむ信心」です。よほど皆くたびれているのでしょう。第三は「難を乗り越える信心」、第四は、「健康長寿の信心」です。

御書には「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」と仰せなのに「絶対勝利の信心」は第五です。号令によって選挙の勝率はなかなかのものです。一家和楽よりも、人生の幸福のチャンスよりも、直面している困難に取り組むよりも、時には自分の健康長寿よりも、活動の中で勝負が先とされ、政治的駆け引きのために、和楽も幸福も問題解決も健康長寿もないがしろにされている現状があるということです。

主師親の三徳というものがあります。主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有するというもの。

親子というのは能生所生の関係です。生まれさせた両親の生殖の機能と、生まれた自分の心身の存在です。親は子に寄り添い、愛されている安心への願いを聞きます。しかし親では聞いてもらえない願いの対象として、より本質的に自分を生み出した存在、あるいは、より寄り添ってくれる存在に対して願います。

師弟というのは能応所応の関係です。得たい求めに応じる師匠の指導と、応じてもらった弟子の体得です。師匠は弟子の特性を見つけ、能力を向上させます。しかし凡夫の師匠には開発してもらえない能力向上のための対象として、神通力を持っている存在を信じて受け取ろうとします。

主従というのは能属所属(※造語)の関係です。範囲に属させている責任者の判断と、範囲に属した自我ある一員の規律と保障です。責任者は責任範囲のメンバーの自我の許容に寄り添い、統治社会を安定させます。しかし国主にさえ安定させられない混乱に対抗するため、全知全能の神や、三界(六道)の主である仏の統治下に入って安定させようとします。

良い子供にとって親の采配は正当で、良い弟子にとって師匠の指導はためになり、良い一員にとって責任者の考えたルールは正しい。

良い親は子供自身の信念に寄り添い、良い師匠は弟子自身の感性を認め、良い責任者は一員自身の情緒を聞き入れる。

それが出来ないのは、毒親であり、毒師匠であり、毒責任者である。

毒親に対して良い子供であることはかえって不幸で、信念に寄り添ってもらえず不安で心細い。

毒師匠に対して良い弟子であることはかえって不幸で、感性を認めてもらえず能力が育たない。

毒責任者に対して良い一員であることはかえって不幸で、許容を越えた統治方法で混乱し安定しない。

実際に昔から、学校で心配な子供として学会員の子供の名前が多く上がる問題がある。純真な子は愛されていないと感じる。

師弟不二師弟不二と言っても、そんな能力のある弟子が登場しない。純真であるほど折伏も選挙戦も苦手だったりもする。純真な弟子は自分はダメで価値がないと思う。

主従の問題は宗門との間で決裂したままで、いっぱしの宗教であるための教義も安定しない。創価新報などの紙面には、推測された敵の動機の恐ろしいことが書き連ねてある。希望の未来を夢見せられて育った子が組織の汚さの壁にぶつかる。純真な一員は何が本当か混乱し人生が幸福の軌道に入らない。

純真な良い子、良い弟子、良い一員は傷付いて終わりなのでしょうか?

しかし、本当の幸福は、毒のない純真な世界の方にこそあるように思えます。

私たちは誰に信念に寄り添ってもらえば良いのでしょう?

私たちは誰に感性を認めてもらえば良いのでしょう?

私たちはどこで許容範囲に安定されるのを経験できるでしょう?

究極は自分自身であり、生命のありのままの在り方という法です。法灯明・自灯明です。

自分の出生の運命を外し、ありのままの願いに自由に寄り添う。

自己の「べき」等の印象を外し、ありのままの感性を育てる。

自我の許容できない抵抗を外し、ありのままの情緒を癒し安定させる。

それはありのままの歓喜であり、それは幸福であり、戦うべき敵もおらず、そこは平和である。

どうすればその方向に向かえるのか?

自分自身の自我の方向性に気づき、そこにある感情感覚思いを否定せず、好奇心をもって根源を尋ね、その全てを癒し味わう。

そのためには、思考を書き出したり、セラピストに聞いてもらったりし、感情感覚思いに気づき、巻き込まれず穏やかに拾えるようにする。

あなたはもう、毒親、毒師匠、毒責任者から真に自由になろう。

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自分解明・自身解放の脚本視点・無作三身

メタ思考を正解に近づけていく過程を晒すというのも、それはそれで面白いのかもしれない。

「言葉を便宜的に使う」と宣言して書いてきたから、これまでも間違いとも言い切れないのかもしれないけど、それでもすごい誤魔化しもあるね。

あれからもだいぶ、メタ探求が進んだんですよ。セラピーをかなり時短しながら正確さを増す可能性があるほどに。

まぁしかしこれも、くくく、人間がどれだけ努力したって、どんな天才と呼ばれることがあったとしても、世界の真実の方が圧倒的に正しい。

あのアインシュタインのアイデアだって、「宇宙が膨張しているなんてそんなバカな」「確率的にしか存在しない量子なんてそんなバカな」と、世界の真実からすれば間違いだらけだ。

真実自身が真実自身を叙述することが知性であるならば、知性は個人には帰属せず、世界全体に帰属する。

いくら天才が頭をひねったからといって「考えたことが真実になる」のではなく、考えに囚われず真実を叙述できる時、「その真実こそが知性」なのである。

「頭が良い」とか「頭が悪い」とか、そういう一般化したアイデアによって人間は人間を苦しめるけれども、実は「考え(アイデアやイメージ)」と「思考(順序立てて積み上げる)」と「知性(真実からの叙述)」は別々のものではないか。

「頭が悪い」という「考え」によって、即「自分は劣っている」「自分はダメだ」と「思考」するのは、「知性」からすれば間違っている。

ここで、間違った「考え」を持つな、間違った「思考」をするな、と言っているわけではない。

あのアインシュタインだって、そういう意味では間違った「考え」を持ったし、間違った「思考」をした。

つまり人間にとってそういう間違いを犯さないことは無理である。

そもそも、「考え」や「思考」と「知性」は別の要素で、「考え」や「思考」は自分の中で起こるけど「知性」は世界の側にある。

世界に帰属する「知性」を中心にジャッジすれば、自分は世界に否定されていると感じる「自分否定」、そんな私を私が否定するアイデアの「自己否定」になる。

否定すれば抑圧し、その苦しみをずっと持ち続けることになる。

その否定や抑圧を解除し、苦しみから解放されるためには、まず、「考え」は「考え」のまま、「思考」は「思考」のまま、見てみる必要がある。

例えば「自分の考えや思いを述べるのが苦手で、事務的なことや、生活に関係のない宇宙の構造みたいな難しい話しかしないキャラクターの自分」がいたとする。

その「キャラクターの自分」は、なぜそれが苦手で、何に苦しみ、何に困っているのか?

そして聞く「そのキャラクターのあなたは、どんな脚本を生きているのですか?」

例えばこう答える「劣っているダメな自分という脚本を生きています」

さらに聞く「その脚本は何のために書かれているのですか?」

例えばこう答える「私は頭が悪いという考えを避けるためです」

さらに聞く「その考えは、いつどうして作ったのですか?」

そこまでいけば、その考えにリアリティーを与えている感情に寄り添って解放すればいい。

どんな感情自身も感じられていいし、どんな考え自身も持たれていいし、どんな思考自身もされていい。宇宙の真実の知性とどちらの方が大切かと比べられるものではない。

誰がどんな考えを持ったところで、誰がどんな思考をしたところで、宇宙の真実の知性には全く影響はないのだ。

この先はまた、さらに理屈をこねます。心理オタクの方のみお付き合い願います。

さて「自身」という言葉を前回まで「肉体」という意味で便宜的に使ってきたが、今回は「気づかれている自身が気づいているという主客が二つでない非二元の意識」を「自身」とする。

「私は自身である」の意味が通るのは、私は私に気づいているし、私は私に気づかれている同時であるからである。

その非二元は自由に解放される道である。

考え自身を否定せずに気づかれるならば自由である。

感情自身を否定せずに気づかれるならば自由である。

思考自身を否定せずに気づかれるならば自由である。

といった具合である。

さて、「自身」という言葉の便宜的使用だけでなく、自己自我自分として説明してきた中身、自身自然自律の配置や言葉や概念、いろいろ一新する。

「自分」とは「身体の自分」と、「精神の自分」がある。

「身体の自分」は外から「実在する肩書のあるキャラクターの私」として観測されることができる。

「キャラクター」には「印象を与える姿や振舞いやセリフ」と「何らかの正解に沿おうとし、いくらかの正しさを持つ知性」がある。

姿や振舞いやセリフや知性が一貫性をもって展開することで生きたキャラクターとなる。

身体に損傷が見えなくて、姿はあっても、振舞いやセリフや知性が無ければ寝ているか死んでいるか。

だが、身体が完全に損傷し死亡して、姿がないのに振舞いやセリフや知性があるという逆は無い。

身体の危機は「キャラクターの私」にとって根本的な危機である。

その身体の上に展開される「姿や振舞いやセリフ」と「知性」。

「姿や振舞いやセリフ」は「人間関係の中で印象を与える自己像」である。鏡を見ているのでなければ普通、主観的には姿は感じられず、振舞い喋っている感覚だけがある。

どんなつもりで振舞い言葉を発しても「ありがたい」か「迷惑」か、「仏のような姿に見える」か「悪魔のような姿に見える」かは、相手の側が感じることである。

実在の自己像は安全な人間関係の中で安全に生じて伝わっている。

「知性」は「法則やルールのある世界で受け入れるかジャッジする自我」である。思考を客観視しているのでなければ普通、主観的には思い込みは気づけず、正論を握っている感覚だけがある。

どんな理屈で仮定し検証しても「それで合ってる」か「間違ってる」か、「思い込みなく見れてる」か「思い込みだらけ」かは、自我が決めるのではなく現実世界の真実が照らすことである。

知性の自我は現実世界に安定した正解がある中で安定して生じて流れている。

「精神の自分」は心の世界の中にいる「架空の脚本に書かれた私」と仮定して解き進めることができる。

「架空の脚本に書かれた私」には「与えられた印象からのイメージと意味と感覚」と「何らかの感情に沿おうとし、いくらかの明晰な感情の答えを持つ情緒」がある。

過去のことでも未来のことでもイメージと意味と感覚と情緒を想うことで、リアルにニンマリしたり、まだ起こってないことに心配したりできる。

「架空の脚本に書かれた私」は過去を想い未来を想う、言語に限らない思考であり、信念体系である。

過去を想い未来を想っても、感情も感覚も起こらないとすれば、既に興味がなくなっているか。

感覚のマヒや重度のうつなら過去や未来にではなく「今」味とかの感覚がなく、「架空の脚本に書かれた私」をよっぽど抑圧していて、他の感情感覚が味わえないほど苦しい。

架空をリアルに感じ苦しむとき、救いを求めたり、自死を願ったりさえする。

過去も未来も想わないことで苦しい感情も感覚も起こさない今ここ瞑想は、精神活動を抑えている間、救いの隙間を作る。

しかし「架空の脚本」が変わっていなければ、精神活動を再開すれば元の苦しみがある。

「架空の脚本」の中身を知り、苦しみ続ける必要性を無くすことで、精神活動している間もハッピーになる。

「架空の脚本に書かれた私」にある「イメージと意味と感覚」と「情緒」。

「イメージと意味と感覚」は「欲求関係で受けた印象の他者像と世界像、そして自己像、そして神仏像」である。パブロフの犬で言う「ベルの音」と「エサがもらえる」を分けなければ、刷り込みに気づけず、「ベルの音」に対して「ヨダレ」というどうしても起こる肉体反応だけがある。

どんな記号に何を期待して肉体反応しても「報われる」か「報われない」かは相手次第で、その時、他者・世界・自己の姿がどう見え感じたか、肉体感覚が自動でストックする。

自己の肉体感覚は安全な欲求関係の中で安全に生じて受け取っている。

「情緒」は「理屈抜きで嬉しいかどうか感じ取る自我」である。リアリティーを事実と解釈に分けなければ普通、本当はそうでない無い事があっても気づけず、全てリアルという感覚だけがある。

どんなリアルが訪れても「嬉しい」か「嬉しくない」か、「愛されてると感じる」か「拒絶されてると感じる」かは、自我が決めるのではなく心の世界の真実が照らすことである。

情緒の自我は心の世界に安定した正解がある中で安定して生じて流れている。

実在の他者が実在の世界に登場するように、像は実際に登場するのは、心の世界に登場する。

心の世界というものがあるのだ。心の世界とは、心象の世界である。今ここの現実でない、心に浮かぶ全ての世界である。

寝ている時に見る夢の世界、臨死体験で見る世界、絵を描いたとき無意識に浮かびだす世界、過去を思い出す時、未来を思い出す時、ここでない場所を思い出す時、ストーリーや背景を想像する時、心に思い浮かぶ世界等々である。

私たちは、寝ている時に見たものは、夢に決まっていると思うけれども、起きている時に思い浮かべたものは、全て現実と区別できているかというと怪しい。

それどころか、精神がある以上、かすかにでも情緒がある以上、少なくともその瞬間には、無意識下には心の世界が広がっている。

突き動かされる情動や強迫症や依存症や不安症や、そういった時、心の世界では何かが起きているのだ。

心の世界で起きていることが原因なら、考え方を変えればいいというような、心は自分の思い通りになるものという漠然とした考えがあるかも知れないが、心の世界に登場する彼ら、それは自己像でさえも、向き合ってみれば分かるが、一筋縄ではこちらの思い通りにならない。

まるっきり、それぞれ自身の思いを持っているように振る舞う。

深い心理セラピーによって彼らと対話し、心の問題を解決することによって、心に平和が訪れる。

そうではない方法で、心の世界に現れた像を無かったことにしても、別の問題が起きる。

心の世界に像が現れている時は意味を拾って感情を起こし、像が現れず記憶として刻まれている時には、肉体反応し肉体感覚になり肉体変化する。

つまり、肉体が不調になる、心身が病気になる。

そうならないための心理セラピーだ。

自由な知性で真理を楽しみ、自由な情緒で花鳥風月を味わう。

そうあるための心理セラピーなのだ。

さて、自我は情緒をコントロールし知識を正しく扱おうとする。

自己は欲求の肉体反応を克服し他者に善く見えるよう振舞おうとする。

自分は思考の過去を克服し未来をコントロールし肉体の今に足りないものを得ようとする。

苦しい時、そういったどこか不自然さがある。

「あなたは何を克服するための脚本を生きているのですか?」

「あなたは何をコントロールするための脚本を生きているのですか?」

きっと本当は、そんな不自然なことをする必要はないのだ。

もちろん本人は本気で悩んでいるだろう。

でも自然でいいのだ。

ありのままの自然な情緒自身、知識自身、欲求自身、振舞い自身、思考自身、身体自身。

迎えに行って自身を自由に解き放ち味わうのだ。

それらは喜びである。

さて、この先は仏教オタクの方のみお付き合いください。

この先は、仏教の言葉に合わせるための、検証困難な便宜的言葉遊びだ。

前回までは四念処の瞑想の世界も追ったが、今回は一旦、がっつり天台日蓮系だ。

特に断りのない引用は日蓮関係の書からの引用である。

ただし、ただ信じ祈り唱えるだけの「根源の一法」というものは省く。

もし、それが根源の一法の名なのだとしても、例えば「相対性理論相対性理論」と唱えても相対性理論が何かしてくれるわけではない。

相対性理論を信じなかったからと言って、その人にだけ間違ったGPS情報が送られるわけではない。

相対性理論の中身を使って人の役に立つように、どう活用するかによってしか、それの恩恵はない。

前回までの内容は一度リセットし、「自我」に対応する「自受」の「報身」とする。

なぜなら、楽しんだり苦しんだりする「自我」は「意(こころ)」であり、「苦楽共に思い合わせる」ことによって自受法楽する「自受」の「報身」にあたる、と立て直す。

「自受用身」という悟りによって得た法を自ら楽しむ仏身を「自受用報身」とも別記され、「報身」である。

また、御義口伝に「自とは始なり。速成就仏身の身は終りなり。始終自身なり。中の文字は受用なり。仍つて自我偈は自受用身なり。」とあるように「自(受用)身」とすれば、「自身」という「自己・自分・自我」を本来ありのままの「無作三身」としてそれ自身に気づき照らし出し顕す智慧と見ることができ、報身になる。

「自身」を照らし出された側の無作三身と見れば報中論三(報身を中心に三身を論じる)になる。

「されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」

自体顕照とは対境としての万法の本体(自体)を照らし、真理を顕現すること。「自体顕照」は智慧の姿だが、万法の体である「自体」は法境である。

よって「自分」に対応する法身は「自体」である。

「此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして、己が当体無作三身と沙汰するが、本門事円三千の意なり。是れ即ち、桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。」

平たく言えば、仏だけにすごい智慧があるのではないですよ、みんな「自身」が溢れて「自分らしく輝いている」とき、その姿のままで仏と同じですよ、ということ。

衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり」

しかし無明という、自己自分自我の本質を知らない迷いに覆われているので、昨日のことを後悔し、明日のことを心配するような夢を見ているのだ。

「一心三観一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身煩悩具縛の身即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり」

自己自分自我の本質を解き明かせば、その無明の迷いが晴れて、この身このままで、衆生は仏と一つになっている。

法と向き合い、無明を払い、自分と向き合い、自分を解明し、自分を解体しても、その本体であり当体であり自体は何かを失う、ということがない。

むしろ自分を抑圧していた正体が、今となっては必要のない幻想だったと知って、自由な考え自身、思考自身、感情自身、印象自身、振る舞い自身、知性自身が、自分らしく歓喜と共にあふれ出すのだ。

自由になったところで、本体 当体 自体には、何の影響もないのだから、自由に人生を謳歌して良いのである。

そして、「自己」に対する応身の語ですが、この次元に合わせようとすると、言葉を見つけるのが大変ですね。

根源の一法だ、自分らしく輝く知恵だ、って言って「応身」はおろそかにされがちです。

でも見つかりました。「自己」に対応する応身の語は「自在」です。

幹用自在が応身であるということです。

天台の『法華文句』の「如来秘密神通之力」について書かれている辺りに「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。即應身也。」等々の説明があり「天然不動の理、法身。無壅不思議の慧、報身。幹用自在、応身。」とされています。

この部分の前半は三大秘法禀承事に「寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云云、疏の九に云く「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸経の中に於て之を秘して伝えず」等云云」と引かれ、また幹用に関して『法華文句』の別の部分から御義口伝の神力品のところに「神は不測に名け力は幹用に名く不測は即ち天然の体深く幹用は則ち転変の力大なり」と引かれている。

幹用とは木の幹のように強い働きのこと。自在とは相手に合わせて変幻自在な振る舞いをし導く姿。

つまり、安心して任せられる委ねられる自在の姿振る舞いである。

それは、境の本体と智慧が一致連動することによってその強い自在の力が得られる。

今回の三身は、ただ全てを手放した瞑想で空に浸るのではなく、なんだかすごく解釈が多い気もするけど、より能動的に輝いた人間として活動するイメージがある。

身体の自分は色法、信念の自分は心法、世界の知性は依報、自分の情緒は正報、そういう重なりも見れる。

こうなるとまた応身が難しい。わずか一か所、三世諸仏総勘文教相廃立の中の引用文に「性殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す能応と所化と並びに権実に非ず」と「能応」という言葉が出てくる。

それにしたって、「能化」と言う方が一般的で、能化とは法を説く師の仏、所化とはその仏に帰依し仏道修行する弟子。という感じだ。能応という言葉に対して、御書には出てこないようだが所応という言葉が考えられる。

もう少し頑張って調べる。

天台智顗の『観音玄義』には感応道交について、「感応の能所の関係から考えると、感には所感と能感があり、応にも所応と能応があって、仏は所感であり能応、衆生は能感であり所応である。このような関係からすると、仏にも衆生にも感と応が存することになり、又、感と応も互の対象によって、巧みに関り合うことから、感応が実在するのであって、ただ仏の側か衆生の側かのどちらの観点から見るかという相違はあるけれども、感応のどちらか一方だけを単独に取り上げては、意味をなさないものであるので、感応道交というのだ」という内容がある。

日蓮の諸法実相抄に「経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」とある。

まぁ確かに、大日如来とか阿弥陀如来とか毘盧遮那仏とか観音様とか、釈迦仏に至っても今ここに実在せず、経の中、架空の側に登場する用(働き)であり、実際に体があるのは、それら仏を心に映す私たち衆生である。

能応所応を、仏も凡夫自身に置き直すと、自己の能応する振る舞いは他者によって所感され、自己は他者によって所応されたところを能感する、ということである。

自己の振る舞いの能応、自己の肉体反応の所応、となる。

上野殿御返事に「提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり、昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、古今能所不二にして法華の深意をあらはす」とある。

能所不二というのも、ちゃんとあるようだ。

色心不二と依正不二は、有名なので省く。

今日はここまでにしておく。

その宗教をしながら自分を大切にできますか?

「境界線を上手に引こう」って聞いたことありますかね?
心理学に興味のある方なら聞いたことがあるかもしれません。

でも、よく分からないんですよね、境界線の引き方。
「嫌なら嫌と意思表示」できるなら、初めから苦労しないわけですよ。

境界線を越えたり越えられたりするのが当たり前になっていると、境界線が何なのか、越えられているのかどうなのか、よく分からない。
その人なりの心地よい距離ですよって言われても、そんなに距離感に自信があったら苦労しないわけですよね。

そんなあなたにも役に立つかもしれない、少し新しい視点の境界線。

前回の自我-自分-自己、自律-自然-自身を使います。

境界線って何のために引くのかというと、こっからこっちは「私のフィールド」ですよ、お互いに心地よくありましょうね、というためです。

この「フィールド」は自分だけの思い感情感覚によって大切にして良いものです。

もはや、有料級の情報です。
本を書くか、講座を開くか、していきます。

自己フィールド/境界、自分フィールド/境界、自我フィールド/境界の順で説明します。

クラウディア・ブラック氏の
1.情緒的な境界
2.スピリチュアルな境界
3.性的な境界
4.人間関係の境界
5.知的な境界
6.身体の境界
の分類を活用しますが、内容はそのままではありません。

「自己境界」には性的な境界と身体の境界があります。
良い境界によって「自身」のエネルギーが開かれます。

性的な境界とはどれぐらい特別な人にどれぐらい性的特徴を見せ、どれぐらい性的接触を許すのかの境界。
肉体の性的特徴や精神を含めたジェンダーを自分で認め、その尊厳を満たす交流をする。
肉体の内側に向かってある繁栄に向かう燃えるような活力エネルギーを感じられる。

 

性的な境界が侵害されると自尊心が傷付き自傷的になったり、乖離的な反応を起こしたりする。

 

身体の境界とはどんな空間にどんな姿で存在しどう行動するかの境界。
適度に新しい場所に出かけ新しい格好をし新しい行動をする。そこへ行きそれをするのはこの身体だと確認する。
いつもあり続ける身体に感謝し大切にし新しい出会いに恵まれる。

 

どこへ何のためにどんな格好で行くか従わせられ続けると、自己価値が下がり、自分が傷つくことは自分が我慢すれば良いような状態になる。

 

「自分境界」には情緒的な境界とスピリチュアルな境界があります。
良い境界によって「自然」に良縁と結ばれます。

情緒的な境界とは好き嫌い良い悪いをどれぐらい感じどれぐらい表現するかの境界。
ある対象がある時、自分にある感情や感覚を、どれぐらいあるがまま許し、感じることができるか。
感情が解放されるとスッキリと軽やかになる。

 

感情を感じないように蓋をすることでエネルギーが重くなり身動きができず何も感じられなくなっていく。

 

スピリチャルな境界とは場所・物・行為・信念・神仏等をどう大切にしエネルギー的につながるかの境界。
自分の気に入ったルールやアイテムで自分の気に入った行為をする。呼吸と共にある霊性を感じる。
大いなるエネルギーとのつながりによってギフトのある流れが開かれる。

 

自分のペースの信じ方をさせてもらえないことによって、居場所が無くなっていき、消えたくなるような状態になる。

 

「自我境界」には知的な境界と人間関係の境界があります。
良い境界によって「自律」の愛や知性や智慧が整います。

知的な境界とはどんな所からどんな知識やスキルや情報や経験を得るかの境界。
好奇心のアンテナを張り、興味はあるが知らないことは知らないと認め、教えてくださいとお願いする。
好奇心で閃きや創造のパワーが冴え、ワクワクの充実を得る。

 

情報を統制されることによって恣意的なバイアスがかけられ、正常な判断ができない集団の一員になる。

 

人間関係の境界とは誰にどう愛を注ぎ、どんな風に知性や智慧を共有するかの境界。
ハートで誘いたいことを自由に表現して誘い、心を動かすが、それを受け取るかは相手を信頼し委ねる。
心のオンオフや目的がはっきりし、テキパキとした生活が送れる。

 

ハートに嘘をついた無理な勧誘などで人間関係を損なっていくと、人生の目的が分からなくなり、生活が破壊されます。

 

ポジティブな面もネガティブな面も、書いたのは一例です。

 

被害を被ったと言ってネガティブな面に執着するよりも、何らかの方法によってそれを解体し、そっと離れ、ポジティブな面を意識して循環させた方が良い。

スピリチュアル→情緒 スピリチャルな趣向があるから好き嫌いがハッキリする。
情緒→身体 ありのままの情緒で軽やかになるから新しい格好で新しい場所に行ける。
身体→性的 新しい場所で出会いがあるからトキメキのエネルギーがわく。
性的→人間関係 活力エネルギーがあるから情熱的に企画やプレゼンができる。
人間関係→知識 プレゼンの交流があるから知識やスキルや情報や経験の幅が広がる。
知識→スピリチュアル 広がった知識や経験があるから開かれた価値あるスピリチュアルに向かえる。

この循環がスムーズであれば、自分のターンで生きている実感になります。

 

↓参考になる動画などをこちらに貼っています。

gozekou.net