心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

正当化の毒からの解放

同化している自分を正当化するために自我は、自分の自我に対し、以下のような考えを起こす。

「この正しい考えは私がしている」(知性の自我)
「この間違った動機は相手が持っている」(情緒の自我)

同化している自分を正当化するために自我は、自分の自己に対し、以下のような考えを起こす。

「このことは貴方(や人や社会)のためにしている」(人間関係の自己)
「貴方のすることは私(や人や社会)のためになっていない」(欲求関係の自己)

同化している自分を正当化するために自我は、自分に対し、以下のような考えを起こす。

「ゆえに私は正当に評価されるべき人間として映るはずだ」(外向きのキャラクターの自分)
「ゆえに私が邪魔を排除するのは正しいことであるはずだ」(内側の信念の脚本の自分)

自分の自我(判断)は、自分の自己(すること)を正当化している。

正当化された自分を実現させるために自己は、様々な行動を起こしている。

このようなことが横行する世界で、心の敏感な人は傷付いている。

およそ仏教であるならば、瞑想などによって自我自己自分の苦しみの世界を理解し、悟りの智慧によって解脱した自由を目指すべきであろう。

ところが仏教のはずであっても、日蓮系、創価学会等においては、様子が違う。

例えば「魔を切れ」「魔に負けるな」という言葉を、自分たちの正当化を強化するために使い、自分たちの正当化を強めて、対立する苦しみと戦い続け、引きずり続ける傾向があるかもしれない。

世界から「貴方たちは正しい素晴らしい」と言われている幻想を植え付ける。
日顕宗や共産党が悪辣なことをしていると言って敵に対する感情を起こさせる。

広宣流布という真の平和のためにしていると植え付け、何でも正当化して行動する。
創価の指導を守らないですることは真の幸せや平和のためにならないとして排除する。

ゆえに創価の中で幹部であるほど偉いという勘違いが生まれる。
ゆえに創価の幹部を批判するものを排除するのは正しいという理屈が生み出される。

もはや、そんな世界となればそれこそ、真の幸せや平和は遠のくというものだ。

「活動に打ち込めない弱い自分の一念を、叩き直してくださいと御本尊様に祈れ」というのは考えてみれば、狂気じみた指導性ではないだろうか?

貴方が活動に打ち込めないのは、貴方の情緒に変な動機があるせいだ、私が貴方を叩き直そうとしているのは貴方のためであり、貴方が世のため人のために働くためである、そのための正しい考え方や知識は私の方が持っているのだ、最も尊い御本尊様をより信じ活動している私の方が偉いんだ、貴方の生活から信心活動の邪魔になるものの一切は排除しなさい。

そういう正当化され肥大化した自我の世界に巻き込むことが折伏とされる。

自我を正当化できることは自我にとってもちろん「気持ちいい」。

しかし「信心活動しない変な動機」は、消えたのではなく、持ち主を変えて存続する。この「変な動機」を持っているのは私ではなく、正しい信心を知らないで偽善をしているアイツらだ。アイツらが一見正しそうなことを言っても正しそうなことをしても動機が間違っているのだから全て間違いだ。だからアイツらを執拗に攻撃することは正しい。

そうやって、本当は自分の側にあるものを相手に投影して攻撃し続ける。

例えば幹部批判したと解釈された者を「魔に侵された」とか「共産党のスパイだった」とか言って、組織から切り離して排除する。

これが平和の在り方だろうか?これが幸せな姿だろうか?

真面目で繊細な人間は、明に暗に「活動に打ち込めない弱い自分の一念を、叩き直してくださいと御本尊様に祈れ」というメッセージを受け取り苦悶する。

もし肥大化した自我に巻き込まれることなく見ることができるならば、「変な動機」というものは、「信心活動しない」という一点だけで、理由も聞かずに一蹴され排除されるべきものなのだろうか?

本当なら、例えば親は子に対して、どんなにダメなところがあるように見えても、信じて、信念に寄り添って、「どうしてなの?」と聞いてあげるべきではないだろうか?

そういうことができずに、世間体とかの方向に自我が肥大化して、子供に寄り添えない親を、最近では「毒親」とか言う。

何も言わなくても皆が実現できているのであれば「一家和楽の信心」というのが「学会永遠の五指針」の一番目にくることは無いだろう。

第二は、「幸福をつかむ信心」です。よほど皆くたびれているのでしょう。第三は「難を乗り越える信心」、第四は、「健康長寿の信心」です。

御書には「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」と仰せなのに「絶対勝利の信心」は第五です。号令によって選挙の勝率はなかなかのものです。一家和楽よりも、人生の幸福のチャンスよりも、直面している困難に取り組むよりも、時には自分の健康長寿よりも、活動の中で勝負が先とされ、政治的駆け引きのために、和楽も幸福も問題解決も健康長寿もないがしろにされている現状があるということです。

主師親の三徳というものがあります。主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有するというもの。

親子というのは能生所生の関係です。生まれさせた両親の生殖の機能と、生まれた自分の心身の存在です。親は子に寄り添い、愛されている安心への願いを聞きます。しかし親では聞いてもらえない願いの対象として、より本質的に自分を生み出した存在、あるいは、より寄り添ってくれる存在に対して願います。

師弟というのは能応所応の関係です。得たい求めに応じる師匠の指導と、応じてもらった弟子の体得です。師匠は弟子の特性を見つけ、能力を向上させます。しかし凡夫の師匠には開発してもらえない能力向上のための対象として、神通力を持っている存在を信じて受け取ろうとします。

主従というのは能属所属(※造語)の関係です。範囲に属させている責任者の判断と、範囲に属した自我ある一員の規律と保障です。責任者は責任範囲のメンバーの自我の許容に寄り添い、統治社会を安定させます。しかし国主にさえ安定させられない混乱に対抗するため、全知全能の神や、三界(六道)の主である仏の統治下に入って安定させようとします。

良い子供にとって親の采配は正当で、良い弟子にとって師匠の指導はためになり、良い一員にとって責任者の考えたルールは正しい。

良い親は子供自身の信念に寄り添い、良い師匠は弟子自身の感性を認め、良い責任者は一員自身の情緒を聞き入れる。

それが出来ないのは、毒親であり、毒師匠であり、毒責任者である。

毒親に対して良い子供であることはかえって不幸で、信念に寄り添ってもらえず不安で心細い。

毒師匠に対して良い弟子であることはかえって不幸で、感性を認めてもらえず能力が育たない。

毒責任者に対して良い一員であることはかえって不幸で、許容を越えた統治方法で混乱し安定しない。

実際に昔から、学校で心配な子供として学会員の子供の名前が多く上がる問題がある。純真な子は愛されていないと感じる。

師弟不二師弟不二と言っても、そんな能力のある弟子が登場しない。純真であるほど折伏も選挙戦も苦手だったりもする。純真な弟子は自分はダメで価値がないと思う。

主従の問題は宗門との間で決裂したままで、いっぱしの宗教であるための教義も安定しない。創価新報などの紙面には、推測された敵の動機の恐ろしいことが書き連ねてある。希望の未来を夢見せられて育った子が組織の汚さの壁にぶつかる。純真な一員は何が本当か混乱し人生が幸福の軌道に入らない。

純真な良い子、良い弟子、良い一員は傷付いて終わりなのでしょうか?

しかし、本当の幸福は、毒のない純真な世界の方にこそあるように思えます。

私たちは誰に信念に寄り添ってもらえば良いのでしょう?

私たちは誰に感性を認めてもらえば良いのでしょう?

私たちはどこで許容範囲に安定されるのを経験できるでしょう?

究極は自分自身であり、生命のありのままの在り方という法です。法灯明・自灯明です。

自分の出生の運命を外し、ありのままの願いに自由に寄り添う。

自己の「べき」等の印象を外し、ありのままの感性を育てる。

自我の許容できない抵抗を外し、ありのままの情緒を癒し安定させる。

それはありのままの歓喜であり、それは幸福であり、戦うべき敵もおらず、そこは平和である。

どうすればその方向に向かえるのか?

自分自身の自我の方向性に気づき、そこにある感情感覚思いを否定せず、好奇心をもって根源を尋ね、その全てを癒し味わう。

そのためには、思考を書き出したり、セラピストに聞いてもらったりし、感情感覚思いに気づき、巻き込まれず穏やかに拾えるようにする。

あなたはもう、毒親、毒師匠、毒責任者から真に自由になろう。

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