心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

本にしました

この度、『妙法セラピー物語』という
小説を書かせていただいた。

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私が仏教の洞察をもって心理セラピーを深めた
主題セラピーについて紹介する内容だ。

主題セラピーにおいて苦の原因は
抑制するものではなく
解体するものとしてある。

解体されるのであるから
気がつけば手放されている。

天台摩訶止観において
生命の無知に対して
十二因縁を観ることが説かれているが

心理セラピーの様々なテクニックや
「人生の脚本」として一切を観られる側に置きうる方法を使う。

このような見地から
日蓮仏法へのアンチテーゼも書いているが

そこにいる一人の学会員に対しては
愛をもって描いてもいる。

難しいだけの解説書ではなく

笑い、成長、愛、涙の読みやすい創作物語
として仕上げることができた。

自分の生命の主題を開くヒントを得たり
自身の意見を再確認して対話のきっかけにしたり

活用していただければ幸いである。

妙法蓮華経』の結経である
仏説観普賢菩薩行法経』にある偈

    若有眼根惡 業障眼不淨
    但當誦大乘 思念第一義
    是名懺悔眼 盡諸不善業
    耳根聞亂聲 壞亂和合義
    由是起狂亂 猶如癡猨猴
    但當誦大乘 觀法空無相
    永盡一切惡 天耳聞十方
    鼻根著諸香 隨染起諸觸
    如此狂惑鼻 隨染生諸塵
    若誦大乘經 觀法如實際
    永離諸惡業 後世不復生
    舌根起五種 惡口不善業
    若欲自調順 應勤修慈心
    思法眞寂義 無諸分別相
    心根如猨猴 無有暫停時
    若欲折伏者 當勤誦大乘
    念佛大覺身 力無畏所成
    身爲機關主 如塵隨風轉
    六賊遊戲中 自在無罣礙
    若欲滅此惡 永離諸塵勞
    常處涅槃城 安樂心恬怕
    當誦大乘經 念諸菩薩母
    無量勝方便 從思實相得
    如此等六法 名爲六情根
    一切業障海 皆從妄想生
    若欲懺悔者 端坐念實相
    衆罪如霜露 慧日能消除
    是故應至心 懺悔六情根

セラピーの視点から要約すれば

もしも自分が長い間
「このことこそが正しい」と思って
積み重ねてきたものが

その見方が間違っているかもしれない

例えば「その行為は私には悪に見える」
というような我見があるとき

一心に「見方の正しさがある」という
積み重ねた罪を懺悔して

悪業を滅し尽くす
正しい方法で深く思念しなければなりません。

あるいは「その言葉は私には悪に聞こえる」
というようなことで
人間関係の調和を壊すことは

本能的な衝動のみによって生きる
猿のようでみっともない。

声は瞬間に聞こえる言葉だけが流れ
ただ全ての物事は空であり

固定され持続する悪のような実体はない。

そのような空が腑に落ちて観れるならば
正しく聞くままに聞くことができるようになる。

何かを嗅ぎ分ける感覚もそう。

ついつい快不快を頼りにしてしまうが
諸法実相に適ってこそ間違いがない。

舌に業障が現れれば
「あなたは二乗根性が強い」とか
ジャッジする言葉を投げつけたりします。

自身の言葉に気づき、慈悲への努力をし、
真実不動の瞑想を修し、
分け隔てする考えを捨てなければなりません。

心に業障が現れれば
猿のように落ち着きがなく

目先を変えてはそれを非難するような衝動に駆られ
じっとしていることができない。

心身の法を落とし込んだ身を持った人
その人が身につけた救済のテクニックの力
その人がホールドして導くセッション

そこに意識を向けなければならない。

人間として生まれたその身体は
その人がその人であるために大切なものであるが

風が吹けば塵が舞うように
起こることに逐一反応して振舞う。

身体に宿している五感や心が
好き放題にそこら辺のものを拾って
制御できてはいないのだ。

このような乱れの業障から離れるには
吹く風を滅すれば良いのだろうか?
舞う塵を滅すれば良いのだろうか?

一切の真実の善性は何を本源としているのか?
そこに思いを凝らさなければなりません。

このような六根に対する方法によって
ありのままの悟りの清浄な六根にしていけるのです。

一切の業障という身体に宿した乱れとは
「○○のように見える」
「○○のように聞こえる」
「○○と嗅ぎ分けられる」
「○○と決めつけて伝える」
「○○が気になって落ち着かない」
「○○に反応して制御できない」
というような

ありもせぬことを思う妄想から生み出されるのです。

だからこれを懺悔するためには
これと距離をとって気づき俯瞰する必要があるのです。

静かに瞑想して諸法の実相を深く思念する必要があるのです。

そこへ至る解体の化導、セッションによって

宿業であれトラウマであれビリーフであれ
あたかも霜や露のごとき幻のように

実相を観ずる智慧の日光に照らされれば、たちまち雲散霧消する。

ただひたすらに実相を観ずることによって、
六根を清浄しなければならない。

というような内容になる。

妄想による混乱した生命

そこから脱するために必要な
諸法の実相を観るとは

いかにすればできるのか?

事の一念三千の本尊を
観心するためには

どうしなければならないのか?

その一念心を観るためには
その一念心は観られる側に置く必要がある。

一念心が観られる側に置かれるならば
観る側はその同じ一念心ではない。

九識心王真如からすれば
観られる側に置かれ得た一念心は
雑味であり清浄ではない。

観察することができるならば
手放すことができる。

仏教の基本姿勢ではないか。

一念心は不可得、不可説である。

密教的なものにおいては
煩悩を薪とするとして手放さず

想うことのできるものを手に入れよう
唯一の根源なるものを説き顕そう

そのような方向の違いがある。

そこでは我見の教主となり、
客観的知性を否定し情動で認知の歪みを押し付ける

保身の師匠となり、
行動の自由を否定し私利私欲を優先して躍起になる

与毒の親となり、
放置や罰で身体を否定し迷い惑いで罵って多重拘束する

手放さず膨れ上がって
他者の境界線を越え

そのように聖道正器を破壊するかもしれない。

だからといっても
「願いは必ず叶う」と教えられ発展した教団の人々に

いまさらに懺悔を求め抑制を課すのも難しい。

五停心観
不浄観 --- 貪(欲望)を抑制する
慈悲観--- 瞋(怒り)を抑制する
因縁観 --- 痴(無知)を抑制する
界分別観 --- 我執を抑制する
数息観 --- 尋・伺を抑制する

そのどこに自受法楽があり
衆生所遊楽があるのかと。

そういった事の解決に向けて
『妙法セラピー物語』を書いた。

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