心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

戦わない正念

さて日蓮の御書の中に『生死一大事血脈抄』があり

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、

 生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」

という御文がある。

 

生死一大事血脈抄は後世に作られた偽書である説が濃厚である。

 

ここ以外に、生きている弟子旦那に対して

臨終正念を祈念しなさいと言われている箇所はない。 

 

念仏者に対して

「臨終正念を期しているが実際そうなっていない」と批判するか

身内の亡くなった信徒に対して

「臨終正念だったと聞いている、霊山へ行かれたことは疑いない」と慰めている

に留まっている。

 

新池御書に

「相構へていかにしても此の度此の経を能く信じて

 命終の時千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし」

とあるが、新池御書も偽書濃厚である。

 

生死一大事血脈抄は念仏に対してかぶせ気味に題目の方がすごいと言っている。

 

生死一大事血脈抄

「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を
 【是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣】と説かれて候、
 悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事
 歓喜の感涙押え難し」

とあるが

 

臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗って

その死者を迎えに来て極楽に引き取るという

念仏の『来迎』に対比されている。

 

【是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣】は

法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文であるが

偽書濃厚である生死一大事血脈抄や御義口伝等にしか

引用が見られない。

 

「此れより外に全く求むることなかれ」と強く書かれている一大事が

 十大部等では全く言われていないことが書かれてある。

 

学術的に検証すれば矛盾が大きいが

生死一大事血脈抄は非常に面白みがあり

創価学会の中で長く愛されている御書の一つである。

 

生死一大事血脈抄室町時代、日有の頃に書かれた疑いが強い。

室町時代頃、数多くの中古天台思想の入った書が製作されている。

 

この頃盛んに日蓮教団の中で中古天台が学ばれたということだ。

 

さて、その室町時代

比叡山延暦寺の権威が強く

 

浄土真宗本願寺などは権威が落ち弾圧されていたようだ。

 

その時の浄土真宗の功労者に蓮如上人がいる。

 

念仏にとって

弥陀の本願によって臨終正念にして極楽往生を期することが

弥陀に救われる前の一大事である。

 

弥陀に救われた後は、それを語り広め

たくさんの人と共に往生し仏に生まれるのが一大事。

 

ということを蓮如上人が言っている。

 

浄土真宗親鸞会という昭和にできた新宗教がある。

袈裟衣を着ないで親鸞蓮如の教えを広めている。

勧誘方法など、正体を隠して虚偽で近づいたり、問題視されたりする。

伝統的な浄土真宗系各宗派からは教義の解釈の違いから異端と見られている。

 

昭和にできた思想集団とは、えてしてそういう節がある。

親鸞会共産党創価学会、、、

 

浄土真宗親鸞会菊谷隆太のYoutubeの動画などを見ていると

芯まで煩悩しかない凡夫が弥陀の本願の念仏によって

ある一念(瞬間)のうちに廻心(心が改まり邪から正へ転じる)し

平生業成(普通に生きているそのままで絶対の幸福になる)する。

その生きているうちになる絶対の幸福とは

摂取不捨の利益(がっちりつかみ取られて捨てられない)であり

無碍の一道(何ものにもさまたげられないひとすじの道)である。

等としている。

 

創価学会では第二代戸田城聖会長が

獄中の悟達を経て、絶対的幸福境涯の確立を提唱している。

 

戸田城聖は、その悟達で得た境涯を様々な比喩等をもって

お前たちが思っているよりもずっと

本当の功徳はすごいものなんだぞ

ということを語ったが

 

親鸞会の表現と比べて

対応している御書の言葉や概念が乏しい。

 

むしろ親鸞の言葉を用いた方がスッキリ説明できるかもしれない。

 

その形式にかぶせてあるのが生死一大事血脈抄だ。

 

「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を
 【是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣】と説かれて候、
 悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事
 歓喜の感涙押え難し」

 

まさに、私の経験した悟達は、これほどのものであった。

と。

 

さて、しかしてこの御書は

後世、大石寺で代々法主の権威を高めるために制作された御書の一角である

ことが濃厚である。

 

日亨戸田城聖によって編纂された御書に

どのような御書が掲載されているかを見ても

 

大石寺教学を、まるっと受け入れている。

 

生死一大事血脈抄の臨終正念の絶対的幸福の中身が、

他の御書で補完されていれば良いのだが

 

念仏の引き合いに出されているだけで中身がなく

 

本旨は代々法主の血脈によらなければいけないという

教団に縛り取るものとなっている。

 

さてしかし創価学会として宗門に従うのみではつまらない。

投獄の難を受けたのは創価学会だという自負もある。

 

あとはお察し

つんけんした戦いが繰り広げられる。

 

それでは永遠に正念は得られない。

 

外に戦う敵がある以上、

敵が上手くいっていれば気に入らないし

自分の方が正しくなければ気に入らない

 

気に入らないというのは苦しみであり煩悩によって起こっている。

 

では正念とは、極楽往生を願うことの方が正念か?

 

どうせ自分自身を内観するような修行をしたってそこには煩悩しかないから

そんな修行とかワークとかせずに、念仏だけ唱えていればいい

 

それはそれでは、自身のうちに刻まれているものを

放置しているだけで、解決していない。

 

正念を、信じる心、願う心にしてしまっていることが

思想集団を生み出させている。

 

正念とはただ自身の内の不浄、苦、無常、無我に気づく

 

セラピーの視点でいえば

その上司は悪い奴だねって共感するよりも

あなたはそんなに傷付いたんだねって寄り添う方が

癒しが起こる。

 

その思いや感情を正しい集中力で支える、ホールドする、正定。

 

正念と正定がある時、正見によって智慧がある。

癒しが起こる。

 

信じ込ませるのではなく

信じ込むのではなく

ただありのままに寄り添う。

 

それは何が出てきてもジャッジしない。

徹して戦わない。

 

正念を正念たらしめるのは

戦わないことである。

 

セラピーによって

戦いの苦しみを抜きされる

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