心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

悪夢から覚めれば

こっそりと、吐き出す場所を作ろうかと。

 

掲示板では随分と頑張ったものだけれども

私を含めて、誰も

思考パターン、反応パターンからは抜け出せはしないのだね。

 

それぞれに信じている軸

批判している軸は違って

いつまでも終わらない。

 

私はあそこではポジショントークをしていた面がある。

 

いや、おそらくここでも

違うポジションをとった

ポジショントークをしていくだろう。

 

アルベア論とは違った方向で

心理セラピーで自身のコンプレックスを読みほどいた視点で

生命の在り方として正しいものは正しいとしつつ

 

宗教宗派の枠を外していこうと思う。

 

禅宗は座禅によって禅定を得

念仏宗は念仏によって極楽往生を得

真言宗は祈祷によって利益を得

律宗は戒律によって規律を守る

 

天台は止観によって円満頓速を得

 

日蓮は題目によって功徳を得る。

 

創価学会には御本尊の問題が起こっている。

 

「その御本尊に祈って功徳はあるのか?ないのか?

どの御本尊にまで功徳があって功徳がないのか?

どの御本尊をどういう理由で受持するのかしないのか?」

 

「幸せになるにはこの御本尊を信じるしかない」

と言っていたものが揺らいでいる。

 

御本尊とは功徳聚という功徳の集まり、功徳そのものであり

その御本尊に題目を唱えることにより、その功徳を得られる。

 

さらに御本尊は御本仏日蓮大聖人であり

その御本尊に題目を唱えることは戒壇の意義もある。

 

等とされていた。

 

現状、「創価学会の御本尊が最高の御本尊だ」とは

言いにくくなってきており、

教義もそれに沿ってゆるんできている。

 

創価学会の幹部たちは

仏法に出家修業した人々ではない。

 

職業として会の運営をしているだけの人々が多い。

 

「池田先生」には触れずに進めていく。

あまりにも濃い投影を誘発するので

冷静な客観視をさせなくさせてしまう。

 

「正しく物事を見る」ことなくして

正しさもないし仏法もない。

 

戦うことをしない、という立場をここではとっていく。

 

現実と心の仕組みとをひも解いてはいくけれども

 

創価学会の運営をしている人は運営をすればいいし

後世造立の御本尊を出生の本懐とする宗派ならそういう宗派でいればいいし

河童のミイラを祀る宗教があるとすれば祀っていればいい。

 

真実を見る目を持つには

自分自身が何に対して、どのような反応をしているのか

冷静に客観的に見ていく必要がある。

 

感情が大きく動いている状態で、

「それはおかしい」みたいなことを論理的に説明しようとしても

感情によって視野は狭まり、バイアスがかかる。

 

外側の何者かに対し感情的になりバイアスを濃くして批判し

コンプレックスを形成し信念体系を正義と持ち上げる。

 

何らかの欲や願いがその通りになっていないという、貪欲の苦しみ

思いの通りになっていないのはあいつのせいだという、瞋恚の苦しみ

苦しみの原因が自身と見れず何ものかを批判する、愚痴の苦しみ。

 

少なくとも

夢から目覚めるに至る心理セラピーでは

このような想いや苦しみは、

自分自身のどういった心の仕組みから起こり来たっているのか

ありのままに、ただ丁寧に見ていくということをする。

 

念仏、親鸞などは自身と向き合った結果

凡夫は自力ではどこまで行っても煩悩しかなく

自力はあきらめて他力本願を願う。

煩悩ばかりだという自身を見て煩悩を知っている。

 

禅宗道元などは心静かに自己を味わうことによって

煩悩から離れた生命を過ごす。

 

セラピーの視点では

どんなくだらない内容に思うことも

どうしようもない凡夫と感じてならないものも

それをジャッジせず、ありのままに解きほぐしていく。

 

ああしなさい、こうしなさい

ということは、生命の自浄作用を阻害する。

 

密教系の、加持祈祷の仏教というものは

「新しい仏教」でありもともとの仏教ではない。

儀式的にさまざまな効果の祈祷を行う。

煩悩を薪として悟りに向かう。

 

加持祈祷の捉え方によっては

自分の領域、相手の領域、自然界の領域

課題の分離に難を生じるかもしれない。

 

さて、日蓮仏法であるが

世が仏法によって平和であるべきとの願いが災害などによってその通りにならず

こんなことになっているのを念仏が広まっているせいにし

中国で形成された新しい加持祈祷の経典から三災七難を持ち出して自身を見ず

念仏を禁止して題目を広めよと自浄作用を阻害する。

 

煽ってバイアスを強力にかける組織を作る要素を持っている。

だがそれは、そんな無理はどうしたって長続きはしない。

 

日蓮の直接の弟子でさえ、

御本尊の書き方も教義も統一されていない。

 

日蓮滅後、日蓮の批判した天台密教に習い、多くの偽書がつくられる。

 

明治の日蓮主義

昭和54年以前の創価学会

昭和54年以後の創価学会

 

昭和54年について今回、詳しくは触れないが

昭和50年代付近に創価学会の家に生まれた子はまじめな子ほど

非常に心が病んでいるケースが多いという実感を持っている。

 

私自身、そういう経験もあって

 

日蓮仏法の「仏法と申すは勝負をさきとし」

「法門をもて邪正をただすべし」

「瞋恚は善悪に通ずる者なり」

 

相手方も、同じ文証を使って自分が正しいと展開することも分かったうえで

批判し論じた。

 

もちろん、分かってない上で持論を展開する相手は

ボコボコと矛盾があるので、追い返すことぐらいはできる。

 

だがどうだろう、私は何者になろうというのだろう。

 

自分のセラピーのテクニックを向上させ

極限まで自分自身の本源にまで迫ってみた。

 

「あ!」

 

なんということだろうか

 

非二元ベースのセラピーを身に着けて

概念としては知っていたはずだが

 

こんなにも本当に「夢」だったとは。

 

固執が自分を自分だと思っているが

その固執は自分ではない。

 

まだ、こんな文章を書くくらい

未消化のものが残っているのだろうが

 

戦わないということの選択肢が

その瞬間の前よりはるかに

穢されずに清浄にある。

 

セラピストは戦わない

セラピストはジャッジしない

セラピストはただただ見る

 

セラピストは

あなたがあなたを見るのを

ただサポートする。

 

悪夢から覚めれば

戦う必要性など

どこにも存在していない。

 

続きは次に回す。

 

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