心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

仏法に苦しみセラピーを得るまで

自分がなぜ、こんなにも苦しんだのか。

 

結局のところ

創価学会の中で仏法を習い極めようとしたから」だ。

 

なまじ眼前に

法華経智慧」や「方便本寿量品講義」

等があったので

仏法の視点からの言葉は

通じると思って戦ったのだ。

 

しかし現場では、全くそうではなかった。

 

特にそのころ私の所属していた組織はひどかった。

 

かろうじて創価学会に残っていた仏法さえ

いの一番に破壊されようとしていた。

 

(今では組織全体に破壊されている)

(2014年に「21世紀への対話」を根拠に

 集団的自衛権の反対運動をした者が後年、続々と処分される)

 

いくら公式の「法華経智慧」や「方便本寿量品講義」の

内容をもって訴えても

 

「頭でっかち」「二乗根性」「お前の頭で考えるな」と

否定されるだけだ。

 

仏教的な成長に全く関係のない

選挙の票取りや新聞啓蒙

 

なにより「折伏」と呼ばれる勧誘の在り方が

私の所属している組織はひどかった。

 

「弱い人間の考えは分かってはいけない」

「ドツボにはまるぞ」

 

全く相手に寄り添わず

人格を否定しプライドをへし折って奮起させる。

 

会員に対しても、そのような折伏精神で

奮起するまで従わされプレッシャーをかけられる。

 

数年間ほぼ毎日数時間にわたって

強制的な軟禁状態で

仏法とは似ても似つかない持論を聞かされ続け

自殺者も出る状態

 

そんな中で仏法にこだわり続けた私は

身動きが取れなくなり

自分の存在意味が分からなくなり

 

セルフチェックシート上は中程度の鬱状態だったりした。

原因がはっきりしているから適応障害かもしれない。

 

本来なら、原因から離れ、休養の必要があろうが

親を含めた組織の人々には

「逃げるな」「根性出せ」「がんばれ」と言われた。

休ませてもらえなかった。

 

四苦八苦がすべてここにある。

否応なく苦諦(人生は苦であるという真理)を見た。

それは嘘ではない本物であった。

 

そのわずかな本物を得たから私は耐えることができたし

その時、同じように苦しんでいる人へ

わずかながら、手を差し伸べることができた。

 

しかし、その「苦」の原因が

煩悩(思惑や情動)であると見れる集諦や

その煩悩が解消しスッキリした滅諦までを

知ることまではできなかった。

 

未だ、証明したい仏法は

創価学会日蓮仏法だった。

 

創価学会がいかにして正しい道に踏みとどまれるかどうか

(正しい部分があると思っていた)

 

どうすればみんなに

「嘘のない仏法」が伝わるかどうか。

 

2014年以降の池田仏法回帰運動とでもいうべき運動に身を置き

対執行部の論陣にいそしんだ。

 

一方、嘘のない仏法の探求の過程で

アルベア論、非二元、非二元をベースとしたセラピーへと

目を向けていった。

 

非二元とは滅諦の涅槃寂静なのであろうが

アルベア論や日本でブームとして消費された非二元が

スピリチャルなどごちゃまぜであったので

私もいい加減な理解で述べていたと思う。

 

だが、セラピーへと至っての

煩悩の構造の学びには嘘のない仏法があった。

 

嘘のない仏法を持つことで

相手の論陣の思い込みや煩悩などを指摘することができた。

 

人間がどのような経緯で物事を思い込むようになるのか

どのような経緯で思うようにならないと苦しむのか

その構造が見えるようになってきた

つまり集諦ができてきた。

 

このあたりで、アルベア論とは決別する。

苦諦の時点では学び教わるものがあったが

集諦に至れば、むこうから切ってきた。

 

セラピーという嘘のない仏法探求の集大成

その練度を上げ自身を癒していく。

 

嘘のない仏法を集大成していくというストーリー

それを自分だと思って生きていた自分が

自分であるというのは思い込みであった。

 

非二元の概念としては知っていたけれど

そういうことなのか

非二元のすべてが分かったとかではないけれども

 

今この文章を書いていると思っている自分は

そう思い込んでいる苦しみの症状でしかない。

 

探求のためにここだけは譲らないと思っていた

創価学会の原点は戸田先生の獄中の悟達」という軸も

ただありのままに解体してもいい。

 

日蓮仏法という軸も解体されてもいい。

 

滅諦という、すべてのストーリーが解体されていい場所。

 

それは悪夢から覚めるということなのだ。

 

これは、ただ何でも手放せばいいと言っているのではない。

正しく集諦を知らずにやろうとしても

蓋をしてしまうだけだ。

 

蓋を開けて戦いを終わらせるのだ。

 

はっきり言ってプロに頼んだ方が良い

gozekou.net

 

創価仏法とは真逆の部分も多い

 

大きな広宣流布ストーリーを打ち立て人々を扇動し疲弊させた。

人生の目的は折伏と唱題で絶対的幸福境涯を得ること

しかし絶対的幸福境涯は日蓮真筆には根拠が薄いので

日寛教学を全面的に採用。

しかし日有に端を発する大石寺教学は

パクリのつなぎ合わせの、日本の伝統仏教の中で極めて

カルト偏重である。

戒壇の大御本尊は後世の造立

日蓮本仏や本覚思想は中古天台から輸入

唯受一人は浄土真宗専修寺派から輸入

無疑日信は偽書にしかない。

「大御本尊への無疑日信の信心で

 絶対的幸福境涯になれる」と言った場合

日蓮真筆からはかけ離れているということになる。

創価学会員が好きな御書の半分は偽書である。

現在は戒壇の大御本尊を受持の対象としていないし

それよりもずいぶん前から唯受一人は否定しているけれども

仏法を誰も修行していない創価学会

仏法が失われる一方である。

創価学会が好きで元気いっぱいだった良い人たちも

年々、元気の度を減らしている。

では日蓮真筆に立ち返れば仏法として正しいかというと

三災七難も末法思想も中国でつくられた密教思想の経をもとにしているし

五時八教も後世の経によって構成されている。

もっとも、そこまで言ってしまえば

すべての宗派が仏教としておかしな部分を持ち合わせていることになるが。

創価学会の「書籍」の中に見られる

池田大作と世界の有識者たちとの語らいなどは

諸問題を乗り越えようという意思が見られたが

現場のカルト体質は、今も昔もひどいものなのだ。