心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

「人」は「今ここ」に能属所属しているので、久遠元初の法を立てて能属所属が言えない

「能属・所属」というのは、よくよく調べれば、無くはない言葉のようです。

玄奘の書いたもの、湛然(妙楽)の書いたもの、道元の書いたもの等に出てきます。

その中でも、道元の書いたものがズバリです。

内容を考慮してみると、日蓮にはきっと、「能属・所属」は言えない。

「能属・所属」と言った瞬間に、能所不二によって、属すことの上も下もなくなり、絶対に敬わなければならない対象が消えてしまうのだ。

日蓮仏法では付属という特別な一人のことしか言えない。

眷属という一方的な関係しか言えない。

日蓮仏法では法華経を謗って地獄に落ちるのを防ぎ、本門の本尊を信じ、そこで日蓮の特別な南無妙法蓮華経を唱えなさい。

これだけが特別なんだという法。

そして唱え広めていきなさい。

相手を説き伏せて眷属を拡大しなさいという一方性。

室町時代以降に拡充された大石寺系の教義には、全ての凡夫には仏性があるとしながらも、法体を有しているのは唯受一人の法主戒壇の大御本尊。

南無妙法蓮華経は何か常識を超越した、やたらめったらすごいエネルギーの宇宙の根本法で、法体を有する法主から法体である大御本尊の写しの御本尊を頂いて祈らなければ功徳は得られない。

酷く上下関係があり、一生成仏はできるのかできないのかダブルバインドで消耗する。

信徒は供養を捧げ続けなければならない。

諸法実相は、はるか久遠元初の南無妙法蓮華経の讃嘆でしかない。

ここにおいて、天台の諸法実相が中道第一義諦である観念観法も否定され「ただ南無妙法蓮華経」になっている。

日蓮から見れば禅宗の「諸法実相は本来の面目のありのままの今ここ」というのは、話の通じない天魔に見えるのだろう。

しかし、諸法として現れている私であれ誰であれ何であれ、「今ここの諸法実相」に「能属・所属」している。

それは一切、あらゆる存在に対して平等に開かれている。

仏といってもただ、この一切平等に開かれた諸法実相を究めつくしているにすぎない。

宗門と決別した創価学会で、「法華経智慧」の内容に、「菩薩仏」というアイデアがあるが、そこだけ見れば日蓮の教義より道元のそれに近そうだ。

それでも、どんなアイデアを持ってきてどんな方向付けをしようとしても、「宇宙根源の法である南無妙法蓮華経」を中心に立てる限り、「自分の今ここを中心にこれを解明して悟る」者は現れない。

池田大作が表から消えて、学会の首脳陣は自分たちの特別化を進め、一方的な従属関係を強化している。

そのようにして「能属・所属」が失われれば、平等ではなく、皆成仏道はなく、純円一実はなく、仏意仏勅はない。

「能属・所属」というのが、そんな重大なことであるならば、禅宗ではそれが盛んに言われているのかといえば、ネットでの検索上、そのような感はない。

禅宗自身にとっては、特に引っかかるところでもなくさらっと流しているのか、それとも江戸時代の寺請制度や本末制度によって禅宗においても「能属・所属」が骨抜きになっているのか、はたまたネットで見つけにくいだけで本当は重要視されているのか、それは分からない。

こと、「能属・所属」においては、日蓮より道元の方が優勢に思える。

その他については未だ語れるほど道元について私は詳しくはない。

以下、関連資料。

道元の『正法眼蔵』の諸法実相(法華経方便品・十如是)についての中の「一切菩薩 阿耨多羅三藐三菩提 皆属此経 此経開方便門 示真実相」(法華経法師品)に触れた部分に「能属・所属」の文言を見つけました。

 いはゆる一切菩薩は一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類
にあらず、老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩
と、二人にあらず、自他にあらず。過現当来箇にあら
ざれども、作仏は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏
し、妙覚地に成仏す。無量百千万憶度作仏せる菩薩あ
り。作仏よりのちは、行を廃してさらに所作あるべか
らずといふは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。
 いはゆる一切菩薩は一切諸仏の本祖なり。一切諸仏
は一切菩薩の本師なり。この諸仏の無上菩提、たとひ
過去に修証するも、現在に修証するも、初中後ともに
「この経」なり。能属・所属、おなじくこの経なり。
この正当恁麼時、これ此経の一切菩薩を証するなり。

とあります。

弘前大学学術情報リポジトリ 矢島 忠夫 正法眼蔵『諸法実相』の説明を添えますと

 ここであらゆる菩薩(仏道修行している仏)と言って
いるのはあらゆる仏(仏であることを実証している修行者)
のことです。仏たちと菩薩で類が異なっているわけで
はありません。どちらかが年長でどちらかが年少で
あったり、どちらかが優秀でどちらかが劣等であるの
ではありません。この菩薩とあの菩薩で、二人なので
はありません、自他の違いもありません。過去のこと
でも現在のことでも未来のことでもありませんが仏を
作す(仏であることを実証する)ことは菩薩の道を行
う人(仏道修行している仏)がかならず為すこと(法
儀)です。
 初めて[仏道修行する]心を発したときに[すでに]仏を
成しているのです、[すでに]絶妙な目覚めの境域(妙
覚地)で仏を成しているのです。限りなく百千万憶回
も仏を作す菩薩がいるのです。仏を作した(仏である
ことを実証した)あとは、行い(仏道修行)をやめてもう
しなくてもよいと言うのは、いまだに仏祖の道(生き
方、歩み方)を知らない凡庸な人です。
 ここであらゆる菩薩(仏道修行している仏)と言って
いるのはあらゆる仏(仏であることを実証している修行者)
の本来の祖先のことです。あらゆる仏はあらゆる菩薩
の本来の先生なのです。この仏たちのこの上ない目覚
めは、たとえ過去に修行し実証されようと、現在に修
行し実証されようと、未来に修行し実証されようと、
[この]身[心]の以前(前世)に修行し実証されようと、
[この身]心の後(来世)に修行し実証されようと、初
めも、途中も、後も(時にかかわりなく)、[「諸法が実相で
ある」と説く]「この経」なのです。属すのも、属され
るのも、同じように「この経」なのです。まさにこの
時、この経(仏の教え、生き方)(法華経)があらゆる菩
薩[の力量を]を実証するのです。
 「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」
を、「一切菩薩、阿耨多羅三藐三菩提は、みなこの経
に属す」と読み、「阿耨多羅三藐三菩提」(この上ない正
しい差別のない目覚め)を「一切諸仏」のものとすれば、
「一切菩薩も、一切諸仏も(それぞれ独自の仕方で存在し
ているが)、ともにこの法華経に属する」と言っている
ことになるだろう。また、「一切菩薩の阿耨多羅三藐
三菩提」と読んでも、本来「諸仏のもの」である阿耨
多羅三藐三菩提が、「菩薩のもの」とされるのだから、
「一切菩薩は一切諸仏と異ならない」と理解できるだ
ろう。
「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」
を、「一切菩薩、阿耨多羅三藐三菩提は、みなこの経
に属す」と読み、「阿耨多羅三藐三菩提」(この上ない正
しい差別のない目覚め)を「一切諸仏」のものとすれば、
「一切菩薩も、一切諸仏も(それぞれ独自の仕方で存在し
ているが)、ともにこの法華経に属する」と言っている
ことになるだろう。また、「一切菩薩の阿耨多羅三藐
三菩提」と読んでも、本来「諸仏のもの」である阿耨
多羅三藐三菩提が、「菩薩のもの」とされるのだから、
「一切菩薩は一切諸仏と異ならない」と理解できるだ
ろう。
「作仏」や「成仏」が、「仏でないものが仏になる」
ことではなく、「仏が行為するように行為している(仏
を作している)菩薩においてすでに仏であることが実現
している(仏を成している)」ことであるとすれば、ま
ず菩薩でありしかる後に仏であるのでも、仏になった
後に菩薩でなくなるのでもないわけである。それを、
菩薩とは仏を師とする(仏にならって行為する)人であ
り、仏とは菩薩を祖とする(菩薩の行為において実現する)
人である、と言うのだろう。

弘前大学学術情報リポジトリ矢島 忠夫 正法眼蔵『諸法実相』8ページ目より

 

「一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」は法華経法師品に出てきます。

薬王。多有人。在家出家。行菩薩道。若不能得。見聞読誦。書持供養。是法華経者。当知是人。未善行菩薩道。若有得聞。是経典者。乃能善行。菩薩之道。

薬王、多く人あって在家・出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ることあらん者は、乃ち能善菩薩の道を行ずるなり。

薬王よ、多くの人がいて在家者や出家者が悟りを求める修行者の道を行ずる時に、もしこの法華経を見たり、聞いたり、見て読み節をつけて唱えたり、書写して教えを銘記して忘ず、供養する事が出来ないならば、当然知るべきである。これらの人は、未だよく悟りを求める修行者の道を行じてはいないのだと。もしも、この経典を聞く事を得たものは、すなわちよく悟りを求める修行者の道を行じているのだ。


其有衆生。求仏道者。若見。若聞。是法華経。聞已信解。受持者。当知是人。得近阿耨多羅三藐三菩提。

其れ衆生仏道を求むる者あって、是の法華経を若しは見、若しは聞き、聞き已って信解し受持せば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たり。

生命のあるもので仏道を求める者がいて、この法華経を或いは見て、或いは聞いて、聞き終って信じ理解し、教えを銘記して忘れないならば、当然知るべきである。この人はこの上なく正しい悟りに近づく事を得たのであると。


薬王。譬如有人。渇乏須水。於彼高原。穿鑿之求。猶見乾土。知水尚遠。施功不已。転見湿土。遂漸至泥。其心決定。知水必近。

薬王、譬えば人あって渇乏して水を須いんとして、彼の高原に於て穿鑿して之を求むるに、猶お乾ける土を見ては水尚お遠しと知る。功を施すこと已まずして、転た湿える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して水必ず近しと知らんが如く、

薬王よ、例えば、ある人がのどが乾いて水を飲もうとして、あの高原に穴を掘り水を求めているとき、まだ乾いた土が出て来るのを見れば、水はまだ遠いと知る。工事を止めないで、湿った土が出て来るのを見て、ついに泥が出るようになれば、その心は確信して、水は近いと知るように、


菩薩亦復如是。若未聞未解。未能修習。是法華経。当知是人。去阿耨多羅三藐三菩提尚遠。若得聞解。思惟修習。必知得近。阿耨多羅三藐三菩提。

菩薩も亦復是の如し。若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解せず、未だ修習すること能わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提を去ること尚お遠し。若し聞解し思惟し修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。

悟りを求める修行者も、またこれと同じようである。もしも、この法華経を未だ聞いたことなく、未だ理解せず、未だ習い修めることができないならば、当然知るべきである、この人はこの上なく正しい悟りから離れてなお遠いと。もしも、この法華経を聞き、悟り、心に浮かべてよく考え、修習する事ができたら、この人は必ず一切の真理をあまねく知った最上の智慧に近づく事ができたのであると知れ。


所以者何。一切菩薩。阿耨多羅三藐三菩提。皆属此経。此経開方便門。示真実相。是法華経蔵。深固幽遠。無人能到。今仏教化。成就菩薩。而為開示。

所以は何ん、一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり。此の経は方便の門を開いて真実の相を示す。是の法華経の蔵は深固幽遠にして人の能く到るなし。今仏、菩薩を教化し成就して為に開示す。

理由は何故かというと、一切の悟りを求める修行者の一切の真理をあまねく知った最上の智慧は、皆この経に属しているからである。この経は人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段の門を開いて、真実の姿を示す。この法華経の蔵は、深く堅固で奥深くはるかであるから、人はよく至ることはできない。今、仏は悟りを求める修行者を教化し成就させるために、これを説き明かし示す。


薬王。若有菩薩。聞是法華経。驚疑怖畏。当知是為新発意菩薩。若声聞人。聞是経。驚疑怖畏。当知是為。増上慢者。

薬王、若し菩薩あって是の法華経を聞いて驚疑し怖畏せん。当に知るべし、是れを新発意の菩薩と為づく。若し声聞の人是の経を聞いて驚疑し怖畏せん。当に知るべし。是れを増上慢の者となづく。

薬王よ、もし悟りを求める修行者がいて、この法華経を聞いて、驚き疑い、おそれるならば、当然知るべきである、これは、出家して間もない悟りを求める修行者であると。もしも、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた阿羅漢を目指す修行者がいて、この経を聞いて、驚き疑い、おそれるならば、当然知るべきである。これは高慢な者であると。

妙法蓮華経法師品第十
妙法蓮華経法師品第十(ほっしほんだいじゅう)現代語訳 | 正法

「能属・所属」あってなお、どちらが上もどちらが下もなく、自他もない、自由は、諸法実相の智慧が「能属・所属」として共有されていく方向にある。

世界大百科事典 第2版「諸法実相」の解説
しょほうじっそう【諸法実相】
仏陀の〈さとり〉の世界から見た森羅万象の真実のすがたという意。諸法とはあらゆる存在,実相とはありのままの真実のすがたのこと。《法華経》の方便品(ほうべんぼん)には,この実相の世界は仏陀の知見したもうところ(仏知見)によってすべて絶対平等である真実のすがたが照らし出されると説かれる。諸法実相は大乗仏教の根本思想として重視されるが,そのとらえ方には発展が見られる。三論宗では空(くう)の理を諸法実相であるとし,天台宗では空・仮(け)・中(ちゆう)の三諦(さんたい)(真理を示す三様の論理)を統一した中道第一義諦(ちゆうどうだいいちぎたい)の理と理解し,禅宗では〈柳は緑,花は紅〉といい,本来の面目が諸法実相を表すとする。