心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

祈りの重さ、がんじがらめのループと、気づきの脱出

祈りや願いが人間にとってどんな効果があるか?
祈りの中で何に気づき、どうあることが苦しみからの脱出につながるのか?

対比として組織優先の論理の下、あるいは「これじゃないといけない」という絶対対象の下で、祈りが不幸な強迫観念につながる可能性を、創価学会の一側面を通して示す。

創価学会では「戸田(第二代会長)の命よりも大切な組織」「正しい本尊に祈らなければ幸せになれない」「祈りは必ず叶う(目的達成のために祈る)」といった方向性がある。

祈りを叶えていくことで幸せになっていく気がするが、祈りによって自分がどうありたいのか自分がどうあるのか気づくことで苦しみの世界から抜けられるのではないか。

まず不幸な強迫観念の可能性から見ていく。

正しい対象(御本尊)に
正しい方法(自行化他の唱題)をするから

願いが叶い幸せになり成仏するのか?

それに固執することは仕組みとしては巻き込み型の強迫性障害のようでもある。
(※それが即、強迫性障害ということではない)

【きっかけ】個人の宿業、組織の打ち出し
   ↓
【強迫観念】題目あげなきゃ、組織活動し正法を弘めなきゃ
   ↓
┌→【不安・不快感】やらなきゃ宿命転換、広宣流布できない
│  ↓
│ 【強迫行為】自行化他の唱題、組織活動
│  ↓
│ 【一時的に不安が下がる】行為による一時的落ち着き、成果等の喜び
│  ↓
└─【問題が解決していないからまた不安に】一生成仏や広宣流布の達成がされていない

会の活動が止まり衰退しないように、常に会員をこのサイクルの中にいさせるために、休日返上で活動をさせるだけの打ち出しが組織から供給され続ける。

何らかの利を得たとしても精神が健全健康ではなく幸せが続かず成仏には遠い。

一方で、病気の寛解など祈りのプラスの効果を実現するタイミングもある。
御本尊が正しいのも題目が正しいのも、その理由でないとするならば、どんな要因があるだろうか?

寛解についてされている研究がある。

『がんが自然に治る生き方 ―― 余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちが実践している9つのこと』(ケリー・ターナー著、長田美穂 翻訳/プレジデント社)
①抜本的に食事を変える、
②治療法は自分で決める、
③直感に従う、
④ハーブとサプリメントの力を借りる、
⑤抑圧された感情を解き放つ、
⑥より前向きに生きる、
⑦周囲の人の支えを受け入れる、
⑧自分の魂と深くつながる、
⑨「どうしても生きたい理由」を持つ、

学会において、医者が匙を投げたら正しさを証明するチャンスといったようなポジティブシンキングを教育していたこと、儀式的な勤行行為で魂のつながりを感じること等も一つの要因であろうが、今回は祈りや願いという軸で論考していく。

自分より高次の法や存在に対して願い祈る時、翻って自分自身を見れば、どのような在り方をしているか?
直感のためにも、感情解放のためにも、魂とのつながりのためにも、前向き、生きる理由のためにも、その視点の気づきが重要である。

しかし唱題行は一つの思いに没頭して執念を燃やすような方向性があり、感情解放とは対極的で、一人で唱題するだけでは悶々とする。
創価学会が他の題目を唱える宗教宗派より一歩抜きんでたのは、大御本尊の集団幻想、集団トランスみたいなものもあったのかは分からないが、ここでは指導主義をあげておく。

「こんなに祈ってるのに、全然良くならないじゃないですか」と食って掛かる会員にガツンと指導。(浮世離れしていない在世の他者視点から在り方を見られて指導される)
会員は、悲しいとか悔しいとか恥ずかしいとか、そういう感情が呼び起こされ、その状態で唱題行をすると感情解放されてスッキリする。

それもセラピスト視点から見れば乱暴で雑であるが、その指導主義も、もはや堕落と時代の変化で機能はしていない。

祈りや願いには「重さ」がある。
学会式の題目では性質上、指導による感情解放でもなければ、どんどん祈りや願いが重くなる。

日顕撲滅!日顕撲滅!日顕撲滅!
広宣流布のためにこの身この命捧げます。

重い祈りを投影して選挙終盤の候補者に鬼の形相をさせる。

願いを聞く側として考えてみて
「ちょっとこれお願いしていい?」っていうのと「どうかどうかこれだけはお願いします」っていうのでは重さが違いますよね。
どっちの方が聞いてあげる気になりますかね?

ではこれではどうでしょうか?
「ちょっとこれお願いしていい?あ、ついでにこれもいいかな?」っていうのと「どうかどうかこれだけはお願いします。あともう一つ、これもお願いしたいんですが」っていうの。
重いものが複数になるとしんどくありませんか?

祈りや願いが重いと、一つ祈り願うだけでいっぱいいっぱいになって、へとへとになってしまいます。
そんな状態で休日返上の活動を続けると、思考力や判断力が低下してしまいます。

家族も重いエネルギーにあてられて病んでしまったりもします。

祈りや願いを重くせず、気づきにいて、冷静な思考力や判断力を持つ。
不自然な重さに気づき、そこに握りしめている感情を解放する。

祈りや願いから感情解放に至り気づきを保っていく道筋として四諦に即すと分かりやすい。

【苦諦】祈りや願いに余分なりきみがあり、それが握りしめている苦であることに気づく
【集諦】その苦は何の集合であるのか好奇心を向けて中身を知る
【滅諦】閉ざされていた感情を味わい解き放ち、その前からある純粋な本心を知る
【道諦】気づきを保っていき、明晰に物事を見ていく

純粋な本心とは余分なストーリーやりきみがない。気づきを保ち明晰に物事を見るということは群れる必要がなく自立して静かにある。

学会は科学が仏法を証明すると言ってきたが、もっぱら科学が証明していっているのは、御本尊でも題目の効果でもなく、無我や瞑想の効果のほう。
しかし学会では無我などの三法印四諦など、あるいは瞑想は、法華経の教えや修行でないもので、流布されない。

執念の祈りで何としてでも勝ち取れ
実証を示して注目を集めろ
あなたの使命は広宣流布だから学会活動に励め
学会組織が敵と言えば敵、味方と言えば味方、その通り従え

何か真剣な祈りがあって功徳が得られたとしても、そのような流れに巻き込まれていくと疲弊していく。

この記事はもちろん極端に書いてはある。

この記事が何を言っているか本当に理解出来たら、それだけでもずいぶん楽になると思う。

しかし一番は経験してみることだ。

特定の宗教行為としてではなく、心を癒し解放する心理療法として体験していただけるコースを用意している。

 

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