心理セラピーと宗教からの解放

心理セラピーで思い込みやコンプレックスを外してスッキリ

「私は自分だ」は何がおかしい?じゃあ、「私」って何?

「私は自分だ」がおかしいなら、「私=自分」でないのなら、じゃあ私ってなんなのよ?

不思議な日本語の言葉遊び。
この投稿では言葉は便宜的に使います。

鏡に向かって「お前は誰だ」って言い続けるとゲシュタルト崩壊して危ないとかいうけれど、あるいはこの字ってこんな字だったかなって問い続けると自信がなくなってきたりするけれど、例えばその時、字の組成・成り立ちを理解していれば、要素に分解されても、それはただそうあるし、元の字を納得の上で再現できる。

「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」って言葉が法華経教学にあるんだけど、より高い次元に目を開かせるために、「今まで何の疑問も持たずに信じていた事って本当に正しかったのだろうか?」と疑問を生じさせるということ。法華経で、一番大事な教えの前に行われた。そして法華経の一番大事な教えは「自身」に要約できる。

あなたは一番身近な「私」というものを、どれぐらい分かっているでしょうか?

「私」の中身を知って、分解されても驚かず、納得の上で再構築できるようになりましょう。
そうすることで、「私」の何に問題が起きているのか、気づきやすくなります。

さて、そもそもですが「私は自分だ」って、なんかちょっと変ですよね?
え?変ですよね?ね!

「私には自分がある」
「あなたには自分がある」って方が、しっくりきませんか?

あるいは「私は自分でできる」とか。

「自分」ってじゃあ何なのかというと
「私の生き方」「私の考え方」「私のやり方」
そういうものに置き換えられそうです。

「自分」は反射代名詞といって、「私の生き方」の「私の」の部分は文脈の中で「あなたの」とか「彼の」とかに置き換わります。

つまり「自分探し」って「生き方探し」ってことですよね。
何に出会ったとき良く思って、そこでどんな役割をして、どんな風に居場所を得られるか?
何を正しいと思い、何を信じるか?

私は何が好きなのかハッキリ言える。そういうことが一般的に「自分がある」っていうことだと思います。

そんな「自分」には「自我」と「自己像」が伴っています。
「言葉で思考する力」と「私ってこういう人だよっていうイメージ」です。

「我思うゆえに我あり」って有名ですよね。「自ら」を「我」と思う「言語思考」です。つまり「自我」です。

なるほど、じゃあ「私は自我だ」で解決ですか?

いやいやおかしいですよね(笑)

「私は自我を持っている」「私は考える力を持っている」の方がしっくりきますよね。

つまり「私=自我」でもないです。
じゃあやっぱりほら、私って何?ってことになります。

同様に「私は自己像だ」って、すごく変ですよね。

「私は自己像を思い描いている」「私はセルフイメージを思い描いている」の方がしっくりきますよね。これ、理解できますよね。

さてさて、今、大変なことが起きているんですが、気づいていますか?

「私が思い描く私は私ではない」と言っているんですよ?分かります?

本質的には、自我が言葉で発するあらゆる「私は○○です」という紹介や宣言に対して、「それは(本質の)あなたではありません」という答えが正しい、ということです。

私とは何か?ということに対して、「私の思考」では本質的な答えを出すことができない、ということです。

では他人からではどうか?「私はあなたの思い描く他己像です」ってヤバいですよね?それでは他人の思うままに支配されてしまいます。

逆に言うと、誰かに対して「他己像を思い描く」ということは、その人に対して、「私の思うようにあってほしい」と願うことになります。

誰かに「私は○○です」と紹介されたとき、見た目や声のトーンやしぐさなどを加味して「他己像」を思い描きます。

良い人だなぁと思えば、私にとって良い人であってほしい、嫌な人だなぁと思えば、あまり関わらないでほしい、なんて願ったりします。

本質はいつもスルーされて、「像の思い描き合い」が起きているのです。

バーチャルな「自己像」「他己像」「世界像」を思い描き、思うようにあってほしいと願う。

しかしいくら「像」を押し付けても、そうは思うようにならない。

また願いの裏に、ダメな「自己像」「他己像」「世界像」を潜在意識下に抑圧しようとする力が働いています。

抑圧して蓋をして見ないようにすればするほど、多くのものを「自我が」求め、すごい勢いで思いが展開します。攻撃的になったり、否定的になったり、考えれば考えるほど深みにはまったりします。

仏教でいう「一切皆苦」の仕組みです。世界から分離した「自分」を生きていると苦しみの方が多く見えるのです。

情報量がパネェけど、まだ折り返しです。

呼吸が浅くなっていませんか?呼吸に意識を向けてゆったり大きく息をしてください。

最近見たyoutubeに面白いものがありました。https://www.youtube.com/watch?v=7WAHPmY-B70握りこぶしを作って呼吸をすると自然に胸で息をし、親指人差し指中指を開いて小指と薬指だけ曲げていると自然とおなかで息をします。やってみておなかで息をするリラックス状態を経験しましょう。

さて世界から分離したバーチャルな「自分」でない、呼吸に意識を向けているときはただ呼吸、分離のないあるがままを仏教で「自然(じねん)」と言います。「おのずからしかなり」「あるがまま」です。

さきほど、おなかで息をしようと思っておなかで息をしたのではなく、小指と薬指を曲げたことによって自然におなかで呼吸しました。「自我」によるものではなく「自律的」な活動です。

バーチャルでない「自然(じねん)」には、全ての活動は「自律的」になされている。仏教でいう「諸法無我」です。これは「知性の否定」ではなく「本質の知性に主体者がいない」ということです。生命の設計者という主体者はいないということです。にもかかわらず生命に満ちた地球があるということは、ここには愛や知性が満ちているということです。

そしてその「自律的活動」は「それ自身」によってなされています。手の形によって呼吸の仕方が変わるのは「肉体自身」によってなされています。

「肉体自身」に対して仏教では「不浄観」を言います。「浄い理想の自己像」を押し付けても苦しみとなります。どんな浄くないありようも、「それ自身」としてあるがままにあるのです。

そんな「自然(じねん)」とは誰にもコントロールされることなく変化の止むことのない「諸行無常」です。引き止められるもの、つかみ続けられるものはありません。形あるものはいつか壊れ、命あるものはいつか死にます。

これは私の独自解釈ですが、少しまとめましょう。思いに意識の向いた分離した個の私の人間界(六道)では自己-自分-自我、瞑想に意識の向いた空の私の仏道界(三乗)では自身-自然-自律、

仏道界 自身-自然-自律
 人間界 自己-自分-自我」となります。

自身-自然-自律は瞑想で落とし込む性質のもので、頭で理解しようとすると、あっという間に「自身」はバーチャルイメージの「自己像」に置き換わり、主体者のいない愛や知性の「自律」は判断しジャッジする「自我」の餌食となり、諸行無常の「自然(じねん)」の世界から分離した「自分」を生み出します。

「私は自然(じねん)だ」や「私は自律だ」は、よく分からない言葉ですね。どういう言い方にすれば良いかを「考える」ものではありません。瞑想で落とし込む性質のものです。

そうすると、意識の向けどころさえわかれば、瞑想の達人でなくても、何者でもないけれども気づいている意識、観察している事にも気づいている無/空の「本質の私」があると気づけます。
六道+三乗の九界に対する仏界です。

もちろん、瞑想だけして、「本質の私」にだけいても社会生活を営めません。出家修行者でない人に対してそんなことはお勧めしません。それより、適度にバランスの良いことが大切です。

さて、「私は自身だ」・・・ん?「私は私自身だ」・・・うん。「私は私それ自体だ」・・・まぁ、そりゃそうですよね?あれぇ~?意味通ってる?

ここが落とし穴です。

「私は私それ自体だ」なんて「考えた瞬間」に「自然(じねん)」から分離した「自分」を生み出し「自己像」を照覧しているのです。
つまり、「私は私それ自体だ」への本質からの答えは、「それは(本質の)あなたではありません」ということになります。

スピリチャルでも、ここまで説明するものは多くありません。華やかに見えても理想像を思い描き、現実とのギャップにもがいている、あるいは今はそうでなくても苦しむことになる、かもしれません。
「自身」と「自己像」の違いに意識を置いてマインドフルネス瞑想をしてみると良いでしょう。

さて、こんなところまで読み進めてくれるなんて、あなたはなかなかの猛者ですね。
もうちょっと良いですかね?

もう少しニュアンスを深め、また、仏教とセラピーの違いにも触れてみたいと思います。

仏教では「個人の私」があたかも現実そのもののようにあることを五蘊仮和合(五陰仮和合)と言います。
色受想行識の五つの要素が集まって仮に「個人の私」をなしているというものです。

色とは五官がある「肉体自身」です。
受とは五官が「自然(じねん)」に刺激を受け取ることです。
想とは受けた情報から「自己像・他己像・世界像」を思い描くことです。
行とは思い描いた像に「自我の思考」が思いを付け足して膨らませることです。
識とは膨らんだストーリーを生きているのが「自分」だと認識することです。

そうすると、「自律」の要素が抜けています。主体者のいない愛や知性の「自律」は、個を超越した目指される仏の智慧という見方がされます。なので仏教とは「瞑想して自我を抑え智慧を開きなさい」ということがベースになります。
「行」「識」の流れが「智慧」に置き換わると、「色」「受」「想」「智慧」になります。方向性としては「智慧の自己像・智慧の他己像・智慧の世界像」の仏教文化が花開きます。しかし「像」の時点で、分離分断側であり、宗派が細かく分かれたり、智慧が人我に置き換わって理屈っぽかったりもします。
「自己像・他己像・世界像」を手放し「自身の真実」を探求する修行をする宗派もあります。

心理セラピーでは、「仏の智慧」とか「自身の真実」とかのためより、「今ある悩み」に対してアクティブに「心の仕組み」「自分の仕組み」を見ていきます。
身体の声やハートの声として無意識下の「自律」の求めを聞いたり、反応を起こしている元にある潜在意識下の抑圧されていた自己像を迎えに行ったり、暴走している自我を整理したり、手の形で呼吸が変わるようにタッピングで起こる身体の状態変化を活用したり、等々をします。
とは言っても、ここまでの視点をもって、ここまでをできるセラピストはそうそういないでしょう。

さて、「自分自身」という言葉があります。
「自分を強めて言う語」らしいですが「私は自分だ」と「私は自分自身だ」では、強さに留まらないニュアンスの違いを感じます。

「私は○○だ」という言い回しを試してきましたが、最後に「これは○○の問題だ」という言い回しでニュアンスを探ってみたいと思います。
「私は○○だ」で設定した便宜的意味を引き継ぎます。

「これは自分の問題だ」分離した生き方の問題、何か自分勝手なこだわりや言動や行動で報いを受けることを意味している感じがします。
「これは自身の問題だ」先天的特徴もあるこの肉体自体の問題、この時代に人間として生を受け、どの肉体機能がいつ損なわれるか、運命や宿業を感じます。
「これは自分自身の問題だ」運命や宿業で定まった生き方の問題、他人にどうこう言われても仕方のないことに向き合う覚悟を必要とする感じがします。

良いセラピストはアドバイス的にどうこう言いません。
あなた自身の向き合う覚悟に寄り添います、おっと、話がそれました。

「これは自己の問題だ」描かれた自己像の問題、自己否定・自己憐憫・自己判断・自己診断・自己陶酔・・・がんじがらめで苦しそうです。
「これは自律の問題だ」主体者のない自律の問題、生理現象のバイオリズムや無意識での身体の反応。意志ではどうしようもなくて困る感じ。
「これは自然の問題だ」五感に諸行無常を受け取る問題、美しい景色も移ろい、好きな人とも別れが来る、寂しさや悲しさの感じ。

「自律」の問題が大きい時には、セラピストだけでなく医者にも掛かって薬で症状を調整することが必要かもしれません。
さて、これらの問題を問題視しているのは「自我」です。その「自我」を問題視すると「あれ?」ってなります。

「これは自我の問題だ」思い込み膨らませた言語思考の問題、書き出したりして自分の思考を客観視します。リアルタイムの思考観察も同じです。問題視されている言語思考と、問題視し観察している私が存在します。問題視し観察している私も言語思考するので、これも別バージョンの自我です。ですが思いに巻き込まれて膨らませ続ける自我よりずっと気づきに近いです。これをすることによって良い方の自我を育て、様々なことが明瞭でスムーズになっていきます。

さて、ずいぶんと思い付きを膨らませて理屈をこねました。
間違っているところもあろうかと思いますが、読んで下さった皆様には感謝です。

これからもセラピストとして立派にやっていけるよう精進いたします。

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祈りの重さ、がんじがらめのループと、気づきの脱出

祈りや願いが人間にとってどんな効果があるか?
祈りの中で何に気づき、どうあることが苦しみからの脱出につながるのか?

対比として組織優先の論理の下、あるいは「これじゃないといけない」という絶対対象の下で、祈りが不幸な強迫観念につながる可能性を、創価学会の一側面を通して示す。

創価学会では「戸田(第二代会長)の命よりも大切な組織」「正しい本尊に祈らなければ幸せになれない」「祈りは必ず叶う(目的達成のために祈る)」といった方向性がある。

祈りを叶えていくことで幸せになっていく気がするが、祈りによって自分がどうありたいのか自分がどうあるのか気づくことで苦しみの世界から抜けられるのではないか。

まず不幸な強迫観念の可能性から見ていく。

正しい対象(御本尊)に
正しい方法(自行化他の唱題)をするから

願いが叶い幸せになり成仏するのか?

それに固執することは仕組みとしては巻き込み型の強迫性障害のようでもある。
(※それが即、強迫性障害ということではない)

【きっかけ】個人の宿業、組織の打ち出し
   ↓
【強迫観念】題目あげなきゃ、組織活動し正法を弘めなきゃ
   ↓
┌→【不安・不快感】やらなきゃ宿命転換、広宣流布できない
│  ↓
│ 【強迫行為】自行化他の唱題、組織活動
│  ↓
│ 【一時的に不安が下がる】行為による一時的落ち着き、成果等の喜び
│  ↓
└─【問題が解決していないからまた不安に】一生成仏や広宣流布の達成がされていない

会の活動が止まり衰退しないように、常に会員をこのサイクルの中にいさせるために、休日返上で活動をさせるだけの打ち出しが組織から供給され続ける。

何らかの利を得たとしても精神が健全健康ではなく幸せが続かず成仏には遠い。

一方で、病気の寛解など祈りのプラスの効果を実現するタイミングもある。
御本尊が正しいのも題目が正しいのも、その理由でないとするならば、どんな要因があるだろうか?

寛解についてされている研究がある。

『がんが自然に治る生き方 ―― 余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちが実践している9つのこと』(ケリー・ターナー著、長田美穂 翻訳/プレジデント社)
①抜本的に食事を変える、
②治療法は自分で決める、
③直感に従う、
④ハーブとサプリメントの力を借りる、
⑤抑圧された感情を解き放つ、
⑥より前向きに生きる、
⑦周囲の人の支えを受け入れる、
⑧自分の魂と深くつながる、
⑨「どうしても生きたい理由」を持つ、

学会において、医者が匙を投げたら正しさを証明するチャンスといったようなポジティブシンキングを教育していたこと、儀式的な勤行行為で魂のつながりを感じること等も一つの要因であろうが、今回は祈りや願いという軸で論考していく。

自分より高次の法や存在に対して願い祈る時、翻って自分自身を見れば、どのような在り方をしているか?
直感のためにも、感情解放のためにも、魂とのつながりのためにも、前向き、生きる理由のためにも、その視点の気づきが重要である。

しかし唱題行は一つの思いに没頭して執念を燃やすような方向性があり、感情解放とは対極的で、一人で唱題するだけでは悶々とする。
創価学会が他の題目を唱える宗教宗派より一歩抜きんでたのは、大御本尊の集団幻想、集団トランスみたいなものもあったのかは分からないが、ここでは指導主義をあげておく。

「こんなに祈ってるのに、全然良くならないじゃないですか」と食って掛かる会員にガツンと指導。(浮世離れしていない在世の他者視点から在り方を見られて指導される)
会員は、悲しいとか悔しいとか恥ずかしいとか、そういう感情が呼び起こされ、その状態で唱題行をすると感情解放されてスッキリする。

それもセラピスト視点から見れば乱暴で雑であるが、その指導主義も、もはや堕落と時代の変化で機能はしていない。

祈りや願いには「重さ」がある。
学会式の題目では性質上、指導による感情解放でもなければ、どんどん祈りや願いが重くなる。

日顕撲滅!日顕撲滅!日顕撲滅!
広宣流布のためにこの身この命捧げます。

重い祈りを投影して選挙終盤の候補者に鬼の形相をさせる。

願いを聞く側として考えてみて
「ちょっとこれお願いしていい?」っていうのと「どうかどうかこれだけはお願いします」っていうのでは重さが違いますよね。
どっちの方が聞いてあげる気になりますかね?

ではこれではどうでしょうか?
「ちょっとこれお願いしていい?あ、ついでにこれもいいかな?」っていうのと「どうかどうかこれだけはお願いします。あともう一つ、これもお願いしたいんですが」っていうの。
重いものが複数になるとしんどくありませんか?

祈りや願いが重いと、一つ祈り願うだけでいっぱいいっぱいになって、へとへとになってしまいます。
そんな状態で休日返上の活動を続けると、思考力や判断力が低下してしまいます。

家族も重いエネルギーにあてられて病んでしまったりもします。

祈りや願いを重くせず、気づきにいて、冷静な思考力や判断力を持つ。
不自然な重さに気づき、そこに握りしめている感情を解放する。

祈りや願いから感情解放に至り気づきを保っていく道筋として四諦に即すと分かりやすい。

【苦諦】祈りや願いに余分なりきみがあり、それが握りしめている苦であることに気づく
【集諦】その苦は何の集合であるのか好奇心を向けて中身を知る
【滅諦】閉ざされていた感情を味わい解き放ち、その前からある純粋な本心を知る
【道諦】気づきを保っていき、明晰に物事を見ていく

純粋な本心とは余分なストーリーやりきみがない。気づきを保ち明晰に物事を見るということは群れる必要がなく自立して静かにある。

学会は科学が仏法を証明すると言ってきたが、もっぱら科学が証明していっているのは、御本尊でも題目の効果でもなく、無我や瞑想の効果のほう。
しかし学会では無我などの三法印四諦など、あるいは瞑想は、法華経の教えや修行でないもので、流布されない。

執念の祈りで何としてでも勝ち取れ
実証を示して注目を集めろ
あなたの使命は広宣流布だから学会活動に励め
学会組織が敵と言えば敵、味方と言えば味方、その通り従え

何か真剣な祈りがあって功徳が得られたとしても、そのような流れに巻き込まれていくと疲弊していく。

この記事はもちろん極端に書いてはある。

この記事が何を言っているか本当に理解出来たら、それだけでもずいぶん楽になると思う。

しかし一番は経験してみることだ。

特定の宗教行為としてではなく、心を癒し解放する心理療法として体験していただけるコースを用意している。

 

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日蓮仏法と帰属と誤謬

“心理学における帰属とは、出来事や他人の行動や自分の行動の原因を説明する心的過程のこと、すなわち誰かもしくは何かのせいにすることである。”

帰属 - Wikipedia より

“論理学における誤謬は、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。”

誤謬 - Wikipedia より

“詭弁とは、主に説得を目的として、命題の証明の際に、実際には誤っている論理展開が用いられている推論。”

詭弁 - Wikipedia より

法然が念仏を広めたから天変地異が起きた。
 念仏を禁じないと内乱や他国からの侵攻が起こる。」

日蓮の最も有名な『立正安国論』の内容である。

内乱は歴史上この時だけに起こったものではないが
二度の元寇という歴史上珍しい出来事を言い当てた
日蓮仏法の正しさを証明する予言的中の書という捉え方がされる。

その捉え方は妥当だろうか?

日蓮が諌暁してのち他国からの侵攻があった」
これは事実として正しい。

では「他国からの侵攻があったのは念仏を禁じなかったから」
だろうか?

それは前後即因果の誤謬であり立証されない。

まして「予言を当てた日蓮が言ったのだから
 法然が念仏を広めたから天変地異が起きたというのも正しい」
ということは立証されない。

天変地異が起きた原因を法然が念仏を広めたせいというのは
かなり飛躍した利己的な帰属であり

日蓮の予言は当たった、日蓮の言うことは全部正しい」
は早まった一般化である。

立正安国論は経文を拾い集めて論を立てている。

そこには確証バイアスが働いていたり
思想的背景に、「全ての正義は最終的には報われ、
全ての罪は最終的には罰せられる」と考えるという
公正世界誤謬がある。

日蓮は「黙って来世に無間地獄か、言って三障四魔による難か」
という誤った二分法で活動を進めていき

法華経の行者は難に遭う。そして日蓮は最も難に遭う。だから日蓮は最も優れた法華経の行者だ」
という媒概念不周延の虚偽に話が進む。

①念仏無間②禅天魔③真言亡国④律国賊の四箇格言も
帰属バイアスに他ならない。

内観の仏法

瞑想し、人生の苦しみとは、煩悩(欲求や情動)による
バイアスのかかった身口意の業の積み重ねで
迷いや妄想の中にいる報いと見抜き
自身のバイアスを解除して禅定に入るような
あるがままの自己に向き合う仏法とは真逆である。

日蓮滅後、室町時代に数々の偽書が加えられ、虚偽の板曼荼羅が造立され
江戸時代にそれを補強されたことで、バイアスがさらに加わる。
それらは誤謬である余地はなく、完全に詭弁である。

戒壇の大御本尊=御本仏日蓮大聖人
その根拠の中に本覚思想、無作三身などが絡む。
唯授一人の血脈相承、無疑曰信、法華折伏・破権門理

大石寺の偏執体質によって
日蓮オリジナルには無かった主張がつくられる。

現在の創価学会へとつながる体質の傾向性から、パラノイア的体質がうかがえる。

偏執病(パラノイア) - Wikipedia

日蓮を本仏化し、法主がその法体を内証とする
超人、超越者、絶対者という存在へと発展する誇大妄想。

無疑曰信で従わせる異常な支配欲。

法華折伏・破権門理による激しい攻撃性。

時は流れ、創価学会
(あえてバイアスという視点で流れのままに書き進める)

第二代会長戸田城聖会長には獄中の悟達という宗教妄想がうかがえる。
突然激しい怒りをあらわにしたようなことが語り残されている。

第三代会長池田大作会長。獄中の悟達の戸田城聖以上の
創価の歴史にも二度と登場しない功績。
正本堂完成の機に広宣流布の達成者になろうとしたが宗門と折り合いつかず。
舎衛の三億を目指したが達成できなかった。


38 ポスト池田大作の創価学会は未だ未達成の広宣流布・王仏冥合・舎衛の三億・天下取りを目指し動いてくる

↑特に後半の推測しかない部分は妥当性がないが
池田本仏論の経緯などは、そのようであったらしい。

さて、創価学会の教学において
バイアスが上塗りされている。

創価の子弟の血脈が本当の信心の血脈。
選挙=法戦、等である。

一旦、池田会長の権限が剥奪された昭和54年以降
本部を立派にし職員の待遇を上げていった。

戸田会長時代には厳格だった財務が

柏原ヤス等の幹部が会員に「出せ、出せ、出せ」と激しく財務集金したり
現場で「100万円出したら息子がいい企業に就職できた。」
「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました。」
などの発言が相次ぎ、他の会員にプレッシャーをかける
ような事態となっていった。

一般の、何も知らない会員も多いが、法戦等
裏ではそれらの遂行は異常なほどの猜疑心や攻撃性をもって遂行される。

組織に従いおよそ仏法とはかけ離れた反社会的行動をして
それが正しい仏法の広宣流布につながると信じていたりする。

人材グループの訓練等で育てられる人材の一部はアイヒマン症候群に近い。
「上が白を黒と言えば黒、黒を白と言えば白
 言った上が罰を受け、 従った者は功徳を受ける」
といった理屈で無疑曰信に行動することを求められる。

まるでミルグラム実験

ミルグラム実験 - Wikipedia

それ以外の一般の創価学会を信仰している会員にも
創価脳』と揶揄されるような気質の傾向性がある。

自分たちは正しいと思っていて非を認めない、謝らない。

創価学会を信じていれば必ず幸せになり
 創価学会を裏切れば必ず不幸になる」と信じている。

何らかの事情で脱会する者に対して
「不幸になるのを見ていてあげる」と捨て台詞を吐く。

学会員には真実が知られないように多くのバイアスが掛けられていた。
インターネットの普及していなかった頃は特に功を奏した。

週刊誌に書いてあるのは全部デタラメ、読んではいけない。
日顕は僭聖増上慢日顕宗は邪宗
共産党は敵、あいつは共産党の回し者だ(でっちあげ)

敵とみなした者にはミソクソに罵倒。撲滅祈願。
このような状態で、まともな仏法が存続しているだろうか?

正しい仏法ではなく

帰属バイアスの惰性で彼らは動いている。

帰属バイアス - Wikipedia

 


【逃走推奨】敵意帰属バイアスの恐怖

 


自分に甘く,他人に厳しいの原因はこれだ!!【行為者-観察者バイアス】

 


成功は自分の手柄、失敗は他人のせい! 自己奉仕バイアスから逃れる方法

人が時間をかけるのは、要領が悪いから
自分が時間をかけるのは、丹念にやっているから

人がやらないのは、怠慢だから
自分がやらないのは、忙しいから

言われていないことを人がやるのは、でしゃばりだから
言われていないことを自分がやるのは、積極的だから

人がルールを守らないのは、恥知らずだから
自分がルールを守らないのは、個性的だから

人が上司に受けがいいのは、おべっか使いだから
自分が上司に受けがいいのは、協力的だから

人が出世したのは、運がよかったから
自分が出世したのは、頑張ったから

『「人を動かす人」になるために知っておくべきこと』(ジョン・C・マクスウェル著、三笠書房)より引用

思い込み信じ込みを見る深さ

何が「思い込み」であり「信じ込み」であるのか
一般的なカウンセラーが問いかけるよりも

非二元の視点から問いかけることができるものは
はるかに深い。

決して「こんなことも分からないのか」ということで
言うのではない。

むしろ、日常会話では、「思い込み」「信じ込み」に
そこまでの意味を持たせてしまったら
日常会話が成り立たないほどの

例えば、「あなたがあなたの人生を生きている」
それは本当ですか?絶対にそう言い切れますか?

ということほどのことを問う。

討論するというところ
普通の会話を成立させるというところからさえ
一旦、一歩引いて
自分の見つめ方、自己探求として
どれだけ深くできるか、挑戦してみてほしい。

「一般常識とは○○である。それは本当ですか?
絶対にそう言い切れますか?
そう考えたとき、あなたはどう反応しますか?」

↑何度も何度も読み返して
確認してみてほしい。

(原文では、ある、そんなのは一般常識がないという思いにたいして言っている)

例えば「(良く生きていくには)もっとお金が必要だ」
それは本当ですか?
これはバイロン・ケイティ氏の切り口である。


バイロン・ケイティ:お金が足りない、それは本当ですか?

私の習ったセラピーは、問いかけ方や癒し方は違うが
見ていく、ベースのスタンスは同じである。

さて、

例えばある人がある人へ
どんな考え方を持っていることによって
激しく罵らなければならないほどの怒りを抱えることになっているのか?

そこを客観的に見ていきましょう。

問題意識を、あれが悪い、これが悪いと外に向けるのではなく
意識を自分に引き寄せて見つめる必要があるのです。

あなたは、どんな時に、その相手をバカにしましたか?
どんな言葉に「攻撃や排除」を感じましたか?
しかし、そういう時にこそ、そこには、聞くべき言葉があるかもしれません。


バイロン・ケイティのワーク: 人が攻撃してくるのはわたしの為

尤も動画内で、バイロン・ケイティ氏は「これは私の経験ですが」と
考え方の提供としてしているので、これは押し付けにならないように気を付け

あなたは、ただあなたを、見つめ直すのです。

あなたの中であなたは、どんな自分だから
そのようなまずいことが起こってしまったのか?

自分の中で抱いている、ネガティブな自分のイメージ。
見つけられるだろうか?
じっくりと自分の体の感覚に寄り添う必要がある。

「私は○○だ」「私は○○しなきゃいけない」「私は○○してはいけない」
そういう思いが見つかるだろうか?

簡単には見つからないかもしれないが
じっくりじっくり自分の感覚に寄り添い
あるがまま、浮かんでくるまま受容して見つけるのだ。

バイロン・ケイティ氏のやり方でいくならば
「それは本当ですか?」と問うことになる。


バイロン・ケイティ:私は太り過ぎてる

そのことを思い信じストレスをもって生きていくのか
そのことを受け入れ流してストレスなく過ごすのか
現実は変わらない同じ一つである。

思いをぶつけても何も変わらない現実に
思いをぶつけ続けることが苦しみである。

バイロン・ケイティ氏の『私は太り過ぎてる』の動画の6:04
祈ったり、懇願したり、訴えたり、泣いたり、かんしゃくを起こしても
今のその状態は変わりありません。とある。

「祈りは必ず叶う」という宗教を信じている者もいるかもしれない。

「何言ってるんだ、祈りは必ず叶う」ともし怒り心頭するような
そういう反応をするなら、
そう反応させるだけの思いが、その人の中にあるということだ。

あるという事実を言っているだけで、
そんな思いがあってはいけないとか
それ以上のことは言っていない。

ただ、そんな思いがあるんだな、と気づいて
それ以上のことは自分で決めればいい。

もし、その宗教の中で矛盾に苦しむような
冷静に見つめる必要がある時には例えば
「不幸の原因は、間違った○○にある」
「唯一幸せになる方法は○○である」
というような、自分の信じている大前提の内容を
客観視してみる必要が出てくるかもしれない。


バイロン・ケイティのワーク(ターンアラウンド1)日本語字幕付

 


戦死した弟の家族をワークする バイロン・ケイティのワーク(ターンアラウンド2)


①それは本当ですか?
②その考えが本当であると、絶対に言いきれますか?
③そう考える時あなたはどのように反応しますか?
④その考えが無ければ、あなたはどうなりますか?
そして置き換える。
「不幸の原因は、間違った○○ではない」
「唯一幸せになる方法は○○ではない」
という立場になって、その証拠を見つけてみる。

①~④を十分にやらずに置き換えをしても
粘着質のアンチになるだけであり

自分の内面の側を深く見る必要がある。

このワークは
その宗教の間違いを見つけアンチになることが目的でなく

自分自身に繋がり、
広々とした自由を実感することの方が主目的である。

私のセッションでは
「不幸の原因は、間違った○○にある」
「唯一幸せになる方法は○○である」
というところを見るのだとしても

バイロン・ケイティ氏もそうするかもしれないが)
どんどん自分に引き寄せて深く見ていくので
その宗教の間違いを探すような工程は踏まない。

ともかくこのような視点を持つセラピーは
すべき内容はシンプルであり
普遍性が高く応用範囲が広い。


バイロン・ケイティ 『ザ・ワーク』

以下、バイロン・ケイティ氏の言葉を借りるが

なぜなら、あなたがずっと捜し求めてきたものにつながるからです。
これまで外に求めてきたものを。
(例えば、どの御本尊が、どの教えが、どの常識が正しいのかと)

なぜ、この視点に立ったワークがパワフルで効果的かというと
自分自身につながるからです。

哲学も宗教も理論も必要なく、とてもシンプル
頭の中を駆け巡るストーリーを見つけ
ストレスの原因となっている考えに気づくだけ。

じっくり探求すると自然に答えが出てくる。
そしていつも驚くのは
現実は必ず、自分の考えよりも優しいということです。

問いかけに答える気持ちがあれば
誰でも苦しみを終わらせることができます。

↓セラピーのご用命はこちらへ。

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非二元セラピー仏教

非二元セラピー仏教

そんな仏教は無いわけだが

 

民衆は、何を根本とすべきか

という問いに

 

今私が出す一つの答えとして

私が提供できるものとして

非二元セラピー仏教と言いたい。

 

それはなんなのか

 

仏教心理学というと

心理を分析する際に仏教を用いる

仏教で心理を学問する

という感じがするけれども

 

それだとちょっと違うんだよね

って感じだね。

 

考え方として「それが法である」

見たい対象の真理というものは

仏の教えの中に説きつくされている

という立場に立つというなら

どの経典の、どの宗派の考え方に立つのか

ということになる。

 

しかし実際の現場で(仏教)心理学を使って

癒すということをするとして

 

法といっても見たいのはその相手の一心一念の在り方であるから

それは、考え方なんていうものを持ってこなくても初めから

完全完璧に欠けることなくそこに相手がいるだけでそこにある。

 

仏教を読み解いていく必要があるのではなく

今ここにいる人の心を読みほどいていく必要がある。

 

たとえ仏教経典に何と書かれていようと

今ここにある心の在り方の方が現実通りなのである。

 

非二元セラピー仏教というのは

今ここにある心の在り方そのものが

非二元であることを法としてセラピーをしていく

ということである。

 

非二元というのは、主体と客体が二でない。おわり。

なのだが、補足はしよう。

 

依報(客体)と正報(主体)が不二(二でない)とすれば

一心(潜在的に気づけていること)が法界(心の反応の働く世界)であり

諸法(気づくことのできる森羅万象)は

一念(今の一瞬だけがある)であり

諸法(今気づける森羅万象の世界の中に)

無我(一切変わらずあり続け、つかめる自分という実体はない)であり

諸行(すべての現れている現象は)無常(変わらないものはない)であり

一切(全てのものは)皆苦(みなコントロールできない)である。

 

思考概念で理解しようとすれば

仏教心理学になってしまう。

 

自分の意識でもって確かめてみて

文章が間違っているなら、文章の方が間違っている。

 

さて、仮に依正不二から一切皆苦まで筋が通っているとして

そうであるならば、ひるがえって

苦が苦として在り続けているから

現実の思い通りにならない現象に会って

それが反応して心が乱れる。

 

さて、その状態から逃れる方法として仏教では

瞑想、祈祷、礼拝、マントラ、読経、写経、忍難、弘通、等々

あるわけであるが

 

非二元セラピー仏教は、その位置に

感情を流し、存在を受容するセラピーを置く。

 

心の反応から、その潜在意識で

何が起こっているのかを見ていき

 

その元にある苦を

そのままあって良い楽へと癒していく。

 

そうすると潜在意識で苦しいことが起こっているということが消えるので

反応として苦しいということが起こらなくなる。

 

仏教の修行は宗教化しているのでああしろこうしろというものであるが

非二元セラピーは、あるがままそのまま、ただ癒していくのだ。

 

非二元セラピー仏教の仏教は

知識として用いるのでも

修行法を用いるのでもない

 

非二元の補足確認をしたような

意識の使い方の智慧として用いる。

 

セッションで仏教ではどうだとか

そういう話が出てくることは無い。

 

ただただこの智慧を方法として使って

ありのままの、今ここにいる人の潜在意識まで見ていく。

 

そうすると潜在意識は自由に解き放たれ自己回復する。

 

自己回復だから、回復したら、

もう外からの何かを必要とすることがない。

 

人が苦として持っているものは

一つや二つではないけれども

 

大きなものが癒されたときや

時間をかけて減らしていったとき

 

こんなにも楽になれるんだということが実感できる。

 

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恐れベースの解体

例えば「一人寂しく死んでいくのは、不幸な死に方」

という考え方について

 

もっともらしく聞こえる、ということがある。

 

そこで、ある人は「この教えを信じれば

一人寂しく死んでいくようなことは無いですよ」

というものに出会い、選び取り

生き方を決める。

 

それによって、

強い生き方ができるようになる人もいる。

 

死に方をゆだねるほど信じるというのは

生き方をその教えにコントロールされる。

 

「一人寂しく死んでいくのは、不幸な死に方」

あるいは「ご先祖様が苦しんでいる」

 

そういったイメージにつけ込むようなものは

同調的コントロールの思想集団を生む。

 

その同調的コントロールの思想集団とは

元々の思想を歪曲した

その教団のトップですら手の付けられない

好戦的同調集団になったりする。

 

宗教裁判や戦火の絶えない『天国』を説くアブラハムの宗教

一向一揆などの『極楽浄土』を説く浄土真宗系の宗教

日蓮主義などの『霊山浄土』を説く日蓮系の宗教

 

彼らは正しさを作り上げ正義だと信じ込んで行動する。

 

恐れベースの上に信念体系を作っており

自分たちと違う考え方を攻撃する。

 

しかしそれではいくら

違う考え方のものを攻撃し抜いたとして

ベースの恐れは消えることは無い。

 

死に至る時、消えていない恐れが隠し切れず噴出し

激しい後悔と苦しみの中で死んでいくこともある。

 

こんなに信じ、正義のために生きたのに

どこで何を間違えたのだろうか?

 

「誰かが信じている尤もらしく聞こえる言葉」

「この人が言うのなら、私も信じてみよう」

 

一度そういう風に信じたならば

その信念体系を否定されれば不快であるし

現実がその通りに行かなくても不快である。

 

不快を感じたとき、信じることを手放す選択肢もあるが

同調集団の中で作られた信念体系によって

それが難しくなる。

 

さて普通、選択権が信じる側にある時には

それを信じてもやっていける強さが

自分には十分にあると感じられなければ

そうそう簡単に、人生や価値観を左右するような

重大な信じる選択はしないであろう。

 

では、自分で選択を誤り

変なものを信じる人間が悪いのかどうか?

 

いくつかの難しさがある。

 

始めに信じたのは真実と感じたごく一部分であったが

同調集団の圧力によって信じる部分を拡大され

元の感覚がマヒしていったり

自分の信じていることを護るために何かに反発して

自分の中に独自の健全でない信念体系を構築したり

 

あるいは初めから自分で選択させてもらえず

侵略的に強いて説き聞かされて

元々持っている価値観や信念体系をへし折られる場合

従属させられるような苦痛がある。

 

あるいは

「誰かが信じている尤もらしく聞こえる言葉」

それを信じているのが親であった場合、

その信じていることが「尤もらしい」のかどうかさえ

判断することなく教わった通りに子は信じる。

 

その結果、世間からは尤もらしく聞こえないことを

これのみが信じるに足る確かなものだと信じ語り

「よし、それを信じよう」という者が少ないことを経験する。

 

正しいはずなのに誰も信じないおかしさ

 

それに対しての教えは

信じる者が少ないから修行なのだ、強いて説き聞かせていきなさい

悪く言われたり手を出されても、自分の過去の罪が滅せられるから無駄がない

幸せになれないのはあなたの信心が足りないからだ

 

子供のうちからそんな教えの世界にいることは

まじめな子であればあるほど、きつい。

 

そうして、自己価値が低下しているところへ

訓練し特別な人間になり役割を与えられると

その役割の中身が世間的に善なのか悪なのかよりも

役割に応えることが最高の正義という価値観になる。

 

集団的な犯罪や倫理欠如が、その内輪で正当化されたりする。

 

さてさてさて

ここまでこじれている場合

 

一筋縄の心理療法では太刀打ちできないかもしれない。

 

丁寧に信念体系をほどいていく必要がある。

 

ベースとなっている恐れをほどいていくのだ。

恐れがなくなれば信じる必要がなくなる。

 

恐れを突き詰めれば何らかの死に行き着く

社会的な死・精神の死・肉体の死

こんな死は不幸だという恐れ。

 

それらの不幸な死のイメージは当人にとって

それはリアルに不幸である尤もらしい概念と感じる。

 

そこから逃れられるのならばと藁をもつかむ。

 

その不幸な死のイメージやストーリー自体が解体されれば

苦しみはなく、なにもつかむ必要がない。

 

ただ楽にある、そのためには

自分を読み解き、知っていく旅になる。

 

傷付いても自分が悪いと思い進もうとし続けた自分や

誰が正しいのか何が正しいのか分からなくなり孤独になっている自分を

発見していき受容していき取り戻していく。

 

信じなければならない苦しみを手放し

否定されることへの攻防反応をしなくなり

あるがままを受容する。

 

楽に生きていけるようになる

 

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こじれたカルト宗教の苦しみや

長年の家庭環境の苦しみは

9回コースをお勧めします。

プロの技で苦を苦と知るのは気持ちいい

セラピーを習い身につけるまで

言い負ける自分の価値の無さに

酷く苛まれ落ち込んでいた。

 

次、立ち上がる時は

命を落とすことになろうとも

言い勝っていかなければならない。

 

そういう覚悟をもって

2015年に開始した戦いがあった。

 

創価学会から切られることは恐ろしいことだと

皆、心に植え付けられていた。

 

だが、一歩一歩機運は高まり

リアルに連絡を取り合うものも出て来ていた。

 

「命を落とすことになろうとも」というのは

大げさに聞こえるかもしれないが

 

私が経験した00年代の活動の中で

二人の人間が命を落としていたし

 

14年以降の戦いで

査問の後遺症を患っていた友岡さんが亡くなった。

 

私は友岡さんの遺言ともなったメッセージ

「妙法の万葉集」友岡雅弥氏の証言編)を

生で聞くという貴重な体験をした。

 

人を死へ追いやりかねない

そういう体質への抗議運動だ

 

池田先生は、少なくともまじめな会員の

生命や人権、魂を大切にする方であった。

(仏敵への攻撃指示などはあったのだと思う) 

 

しかし池田先生お一人では

もはやどうしようもない創価の歪みがあった。

 

池田先生の作った信頼を

創価のバカ貴族たちは捻じ曲げて利用する。

 

さてしかし、冷静に見るのだ。

 

「だから池田先生が正しい」と言っても

「本当の日蓮仏法に帰れ」と言っても

 

それでいつ何が解決して苦しみが消える日が来るだろうか。

 

しかし私は冷静ではなかった。

 

随分と強弁をふるって業を積んだ。

 

学ぶところも多かったし

後悔はしていないけどね。

 

「法華折伏破権門理」(他宗派はすべて邪宗として言い負かせ)

「無疑日信」(一切疑わず信じろ)

室町時代に作られた偽書に多く登場する言葉だ。

 

 

室町時代に作られた偽書創価学会員が好んで使うし

私の好きだった御書も多い。

 

思考停止し、組織を信じて

言われたとおりに相手を打ち滅ぼす。

それは恐ろしいカルトになる。

 

友岡さんが「ボランティアなど聖教新聞社員がしてはいけない」

とかいうむちゃくちゃな理由で、

言語機能に障害が残るほどの査問を受けた。

 

そんな体調不良の中ボランティア先で亡くなった。

 

その他

組織の批判者を尾行したり、嫌がらせをしたり

スラップ訴訟をされている方も実際に知っている。

 

心がすさみ正常な判断ができていないが

その行為ですら、彼らは正義と信じてやっていたりする。

 

裏切り者に制裁を与えたりすることが

本気で世界平和につながっていくものと思っていたりする。

 

創価班の訓練などは、池田先生に忠誠を誓わせるということと

そのためには、どんな汚いことをやることも正義のためなのだ

という理屈にして叩き込まれる。

上が白を黒と言ったら黒、黒をしろと言ったら白。

完全に組織の意のままに動くようにされる。

 

創価学会は大きな組織だ。

毎月、全国で小学校の数より多い個人宅を含む拠点で座談会が開かれる。

 

世界にも192ヵ国地域に会員がいる。

 

これだけ広まっていることを学会員は正しさの証拠の一つとする。

 

そもそもその淵源、戸田先生の時の折伏大行進からし

それは正しかったのかどうか?

 

「大御本尊を信ずる以外にない」として

大石寺教学のカルトを大々的に発動させたのだ。

 

無理な折伏で自殺者が出たという記録もある。

 

戸田の弟子にどれだけまともな人間がいただろうか。

 

盗聴事件、替え玉投票事件、週刊誌への情報横流し

そういう体質は当時からあるのだ。

 

折伏とは何なのか、それは本当に折伏なのか。

 

開目抄には

「邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。常不軽品のごとし。」とある。

 

不軽菩薩はどんな相手にも、礼拝をしたのだ。

誰人をも悪としてやっつけていない。

(参照 日蓮宗広済寺 折伏の本当の意味

(参照 WEB版新纂浄土宗大辞典 摂受・折伏

 

それでは日蓮真筆に立ち返ればいいのか?

それとも法華経にまで立ち返るのか?

あるいはスッパニーダへ。

 

ぐるぐると巡る「何が正しいのか?」

 

それがまずもって苦しみである。

怒り憎しみ戦うということは苦しみなのだ。

 

生命の底から苦を苦と知ること(苦諦)

思考の偏重、バイアスが苦を終わらせないでいると知ること(集諦)

非二元のセラピーによって夢から覚めると知ること(滅諦)

 

「苦を苦と知ること」とは

いかにも恐ろしい響きであるが

 

もっとも私はそれを怖がって長年本当に苦しんだのだが

 

プロの技をもってすれば

苦を苦と知ることは気持ちいいのだ。

 

その技において題目は関係ない、

エネルギー心理学の分野の手法が役立つ。

 

四条金吾殿御返事(衆生所有楽御書)

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて

 南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、

 これあに自受法楽にあらずや」は

 

三宝寺録外の御書となっている。

 

苦しみを乗り越えるのは題目でならなければならず

人生を切り開くのは折伏によらなければならない

 

それが正しいならば

そうして作り出された組織が

 

どうしてこうも「」という煩悩の苦しみに満ちているのか。

 

すべからくそういう苦しみに嵌っている人は

プロの気持ちいい技によって

ただ脱会したり学会批判するだけよりも断然に

生命の底からスッキリする

セラピーを経験してみるべきである。

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