信行学

正義の旗 | いまさら やめては だめなのだ | 862

>>

御書や法華経・諸経、あるいは教義や創価三代の指導は
学ぶ対象であって、
何を信じるかの判断や、どう行動するかの判断の
考え方の基を作ることであり
悟りの側から見れば
抵抗のないあるがままの自然への回帰への
何が引っ掛かっているのか気づくための手助けである。
そういう生命との関係性であるから
無謬の如く信じる対象とすれば
不自然の構築になって
自然への回帰の気づきが起こりにくい。
つまり、学びへの対し方としては本来
疑問に思ってはいけないことは無いし
何を学び取ってどう考えるかは
少なくとも一旦は保障される。
初めから100%正しく理解しなければならず
正しく理解しなければ発言権が無い
というような類のものでは無く
それぞれの人の心の自由は
そのままで、尊重されるべきものである。
ただ、もっと学んでいこう
人生の先輩の言葉に
また、新しい感性の発想の言葉に
耳を傾けていこうという姿勢が大事である。

学んだことは行動に
そしてまた、行動の結果から学んでいく。
学んで終わりではなく
やってみることが大事だ。
変な理由を付けて何もやらないよりは
間違っているかもしれなくても
覚悟を決めて一歩を踏み出すこと、
また、迷って何もできないのと
何もしないと決めて何もしないをするのも違うし、
迷って何もできない事でさえ
本質としては
宇宙生命に受容されている等しい生命である。

行と学は大事ではあるけれどもどうでもいい。
信がそうあった時の受け皿として道を用意してくださっているのである。
行と学は信心より起こるのである。

信心とは何か。
何も信じずに生きている人はいない。

ここはパソコンやスマホから見れる掲示板で
これは、日本人に読むことの出来る日本語で
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

今、財布にこれぐらいのお金が入っていて
これは日本国内で商品と交換できるもので
これによって食べ物を得ることが出来る。
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

もし、突然に、海外へワープさせられたら
通じる言葉もなく、通用するお金もなく
信じているものが通用しなくなる。

そこで何もなくなるかと言うと
右足と左足を交互に前に出せば歩けるというのは
地球の陸上であれば変わらず
信の中心がそこにあってサバイバルの精進がされていれば
身一つあれば生きていけて
海外にワープさせられたぐらいでは動揺しないかもしれない。

人間にとって一番の問題は
誰もが最後には死というものをむかえ
そこには何が通用するのかということである。

つまり、仏法の信の対象は
生死を越えて貫く生命である。

そういうものであるから
何をはく奪されても
たとえ今世の生を奪われても
護り通すものである。

熱原の法難で彼らが護り通したものであり
700年後の昭和54年に池田先生が護り通したものである。

池田先生がただ我一人と痛感した
正義の旗である。

<<

 

購読しているブログ

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

watabeshinjun.hatenablog.com

若干の抗議をば

 

人間革命にはこう書いてあるけど

本当はこうだったんだよとか書いている人が

「恩師の二十三回忌に思う」をそう使うのは

ちょっとズルいなぁ、と。

宿坊の掲示板の下記の記事と比べると受ける印象が違うはずだ。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/64970

http://6027.teacup.com/situation/bbs/65004

 

池田先生像の幻想を解除しようという試みを

それ自体はそれも一つというところもあるけど

この「恩師の二十三回忌に思う」に関しては

ちょっとズルいなということで指摘しておきます。

仮開設

シンプル生命の詩

いまさら やめては だめなのだ

↑主にこの二カ所で現在書いています。